世の中には、「あれとこれは同じことだ」とか、「いやあれとこれは全く違うことだ」という様な、議論・応酬・対立が多い。今日はこのことを取り上げたい。


まず、数学で習った零次元は点、一次元は線、二次元は面、三次元は立体空間という話しを思い出して戴きたい。


今、仮に我々が二次元世界の住人であったとする。そしてある人々は、タテ方向の壁面の住人であり、別の人々はヨコ方向の床面の住人であったとしよう。ここから先は、下図をよく見てほしい。


そして我々二次元人には見えないが、もう一つ上位の三次元世界に、三つの立体が存在しているとする。A:三角錐△、B:円筒体□、C:球体○、の三つの物体である。


ところが、我々二次元人に見えるのは、A、B、C、それぞれの影の形だけだとすると、

タテ社会の壁面人には、Aは三角形△、Bは四角形□、Cは円形○の影が見えている。

しかし、ヨコ社会の床面人には、Aも円形○、Bも円形○、Cも円形○の影が見えている。


宥幸のブログ-フランクルの図


タテ社会の壁面人と、ヨコ社会の床面人が、AとBとCのかたち・形状について議論すると、


壁面人は「Aは△、Bは□、Cは○であり、これらの三つは全く違うもので相容れない」と主張する。


しかし、床面人は「何を言うか。AもBもCも、全く同じ形の○である。これらは同じものである」と主張する。


そして議論は全く噛み合わず、対立して批難攻撃の応酬となるだろう。なぜなら、それぞれ彼らには、「本当にその形が見えている」という事実があるからである。


もしこの二次元世界に、賢人がひとり住んでいたとして、その賢人曰く、

「壁面人たちと床面人たちよ、我々の目には見えないが、もし我々の住んでいる世界のもうひとつ上の次元の世界があるとせば、その三次元世界に、三角錐と円筒体と球体なるものが存在していれば、理論的には我々にはこの三つが違う形に見えることもあれば、同じ形に見えることもあるじゃろう」

と対立を解決してくれるかもしれない。


「似て非なるもの」という言葉があるが、上記のモデルのように、同じものでも、実体は異なる場合もあるし、違うものでも、別の側面では共通する同じ面があるかもしれない。もっとも、違いばかりを見つけようとする人もいれば、なるべく共通する面を探そうとする人もいる。どちらが良くてどちらが悪いということではなく、それは中味によるのだろうが、いずれにせよ短絡的な一面的かつ一言居士的議論では見過ごされてしまう真実が、そこに隠されていることもあることを銘記したい。


このモデルは、以前ご紹介したヴィクトール・エミル・フランクル博士が、その著書「意味への意志」(ブレーン出版)の中で説明されているものである。もうひとつ、応用編がある。上図の円筒体に注目して戴きたい。これが「コップ」だとする。すると壁面人は「コップは四角い」と主張し、床面人は「コップは丸い」と主張して対立する。そこへ賢人が現れて、「諸君、コップなるものはきっと円筒体というものだ」と対立を解決したとする。


しかし、二次元世界に写っている影の形のみでは、「コップの上面は開かれ、下面が閉じられていて、水を入れることが可能な容器」であることまではわからない。これこそコップのコップたる所以であり、「蓋の閉まった茶筒」の様な閉じられた円筒体では、液体を入れて飲むことも運ぶこともできないのだ。つまりコップとしての本質と機能までは、二次元の影かたちからの類推ではわからないのである。従って、どんなに優れた賢人といえども、より上位の次元の世界の全てが、下位次元の世界の住人に全てわかるわけではない。これもまた真理のひとつである。


これらのフランクル博士のモデルから、日頃我々が対立したり、議論の応酬を繰り返している事柄のなかに、別の側面や次元での共通点が見いだせたり、逆にすっかり同じと信じていた事柄が、掘り下げたり、上から全体像を立体的に眺めてみたりすると、異なっている面を見つけたりすることがあることを示唆してくれる。例えば先日アップした「自虐史観」と「自省史観」についても、ある面は共通した同じ内容とか意味を持っているかもしれないが、別の面を眺めると全く異なる内容と意味を持ち得ることが、このモデルから類推できるであろう。何事も断定するということが如何に難しいことであるかを、我々の世界に生きた賢人フランクル博士は教えてくれたのである。