矢だけあっても、弓がなければ的には当たらない。アベノミクスの第三の矢を飛ばす弓は、恐らく旺盛な起業家精神を持つ事業家か、一儲けを狙う「健全な」投資家か、新規事業に活路を見出さずにはいられないこのまま放置すれば死にゆく産業の担い手か。そもそも経済学の教科書の最初の頁には「ホモ・エコノミクス」つまり経済学的人間像が紹介されている。人間は合理的に利潤を追求する存在であるという前提である。物欲による快楽の最大化を目指して合理的かつ意欲的に能動する人間像が前提となっている。


しかし、本当に本当にそれは本当だろうか?もちろんお金があるに越したことはない。邪魔にはならないし、お金が欲しいというのは当たり前であろう。しかし、お金は手段、道具ではあっても目的そのものなのかと言えば、いくらお金があっても幸せとは限らないし、お金があまりなくても幸せだと思っている人々もいるのもまた事実である。幸せとは自分が幸せだと感じていなければ、幸せではないのであって、お金持ちがイコール幸せとは断言できないのだ。もちろんお金持ちで幸せな人はいるだろうが、お金持ちなら全員が幸せだとは言えないのである。人間は何のために生きるのか。これは古代から現代に至る巨大な人類の歩みの中で、なかなか答えの出ない問題なのだが、少なくともある人物は答えらしきものを見つけた。


それはヴィクター・エミル・フランクルという人である。此の人は、人間の根源的欲求は「意味への意志」であると言う。つまり人間は意味なくしては生きられないというのだ。この人はナチスドイツの強制収容所にユダヤ人として収監され、年老いた両親と美しい妻や兄弟をガス室で失った。ところが殆ど偶然から本人だけは生き残る。そして名もなく金もなく何等の権利もない家畜以下の地獄の収容所生活の中で、筋骨逞しい人でもあっけなく死んでしまったり、ひ弱な人でも生き残ったりするのを実際に見た。


強制収容所ではほんのちょっとしたことが命取りになる。粗末な寝台にわら屑が落ちていただけで、清掃を怠ったとして処罰を受ける等である。ありとあらゆる人を苦しめる処罰の中で、これをさせられると殆どの人が数日で死んでしまうという処罰があった。尤も、処罰を受けていない人々も、毎日重労働を課せられていた。水のように薄い代用スープと人を小馬鹿にした様なちっぽけなコッペパン一個だけで、一日中トンネル掘削などの肉体労働を毎日させられるのだ。それだけでも倒れて死んでしまう人も出るのだが、全く同じ食事と労働時間、労働内容なのに、この処罰を課せられると全員が数日で死んでしまうのだ。


それは、まず深く大きな穴を掘らされる。そしてきれいに真四角に整えさせられて、その穴が完成すると、今度はその穴を埋めさせられる。そしてきれいに整地させられる。それが済むと、今度はその同じ場所に、また先ほどと全く同じ深い大きな真四角の穴を掘らされ、きれいに整え終わると、またそれを埋めさせられ、きれいに整地させられる。そして、これが生きている限り永遠に続くのだ。死ぬことしか、この作業から逃れることはできない。しかし他のトンネル堀りの囚人と同じ、労働時間、食事、環境ではあるのだ。しかしトンネル堀りにはいくら過酷でも進捗もあれば完成もある。建設的意味は辛うじてあるのだ。しかしこの穴掘り穴埋めの処罰作業には何らの意味もない。全く意味のない作業を延々と無期限に続けさせられるのである。これにはどんな人間も数日間しか耐えられなかったという。自殺するまでもなく疲弊困憊して死んでしまうのである。それは全く「意味がない」作業であるからなのだ。


フランクルは、強制収容所に収容されるまでは、ウイーン大学医学部の若き精神科医だった。有名なフロイトに師事し、兄弟子のアドラーとともに、ウイーン精神医学の一派をなし、フロイトをウイーン第一学派、アドラーをウイーン第二学派、フランクルをウイーン第三学派と呼ぶ。フロイトは人間の根源的欲求を「リビドー(食欲や性衝動を含む生物的な生命体維持発展の衝動)の追求」に置き、アドラーは「人間は社会的存在である」ことに人間が人間たる基盤があるのだから、人間の根源的欲求は「社会における優位性の追求」だという。つまり相手や周囲よりも、社会的地位、財産、名誉が高いことが目標になる。それが人間の根源的欲求だというのである。フロイトもアドラーも、それぞれの主張するこうした人間の根源的欲求が、何等かの理由で阻まれることが原因で、神経症になるというのだ。


これに対し、フランクルは、人間の根源的欲求は「意味への意志」だという。意味なくして人は生きられないというのだ。しかし、その人にとっての意味は、その人が抱く価値観によって異なる。またその時その人が置かれている状況や環境、社会によっても異なってくる。つまり、意味の中味は可変的であり、属人的でもあるのだ。ある時のある人にとっては、食べることが最大の価値であり、意味のあることでもあり、性衝動を満たすことが最大の価値と意味である場合もある。この場合は、フロイトの主張するリビドーがその時のその人にとっての「意味」になっている。また、ある人にとっては、会社内での出世競争や、首切りから生き残ること、仕事での業績を挙げることなどが、価値である場合もあり、その時の生きる意味は正にアドラーのいう「社会における優位性の追求」に他ならない。つまり、三次元(空間)が二次元(平面)と一次元(線)を包含するのと同様、フランクルの「意味と価値」はフロイトもアドラーも包含し得るのである。


しかし、意味をもたらす「価値」とはなんだろうか。それは生体維持衝動だけでも社会的優位性だけでもないのではないか。事実、フランクルがいた強制収容所の囚人には、性衝動どころか生きる最低限の食物さえ与えられず、餓死者が続発し、名前も肩書きも取り上げられ、唯一の識別は腕に入れ墨された囚人番号のみという状況下では、出世も名誉も関係のない「社会」であった。つまり壮絶なある意味の社会的実験状況に置かれたとも言えるわけであり、その中で生死に直面した人々の中の一人がフランクルであった。自分も死にそうなのに、少なからざる人が、病気の囚人の枕許に自分の一日一個しかもらえない小馬鹿にしたような小さなコッペパンをそっと置いて強制労働に出かけてゆくのをフランクルは目撃している。いつ解放されるか全く期待できない収容所の中で、それでもアメリカに姪がいる、親戚が生きているという様な、かすかな希望がか弱そうな人を生き残らせ、希望の全くない頑強そうな人を死なせてしまうのもフランクルは見たのだった。究極の絶望的状況でも、人間は僅かな希望だけでも生きることができるのだ。パンドラの箱の底に残っていた、あの「希望」こそ、価値と意味の象徴なのである。


そしてこの文脈で見てきた時、冒頭の物欲による快楽の最大化、利潤の最大化が、人間の価値と意味の根源だろうか?人は利潤の最大化の追求のためにのみ生きるのであろうか?ここに第三の矢の根本問題があるのだ。経済も産業も人間が動かすものである以上、「意味への意志」こそがその根源にある事を知るべきである。人間は、ホモ・エコノミクス以上の存在であり、それはその人全体の一部分の要素に過ぎないのだ。わたしは、フランクル博士の意を承けて、人間をホモ・シグニフィカンスと名付けたい。これは起業家精神そのものの根本に関わる重要な問題なのだ。これがどうして、どのように、アベノミクスと関係するのか、次回もう少し考えてゆきたい。