あれから10年。
東京にいた私でさえも恐怖でどうしようもなく、今でもあの時のことを思い出すと内臓がスカスカになったようになり、呼吸が荒くなる。
つい先日、東北に住まれている方と仕事上電話で話す機会があった。
彼女のお顔はもちろん知らない。年齢が40代で宮城に住まれていること以外は何もわからない。
「東日本大震災で家も何もかも失って元々住んでいたところへは戻れなくて、姉も亡くなって。
何日かしてから姉の遺体が見つかって、きれいな死顔でほっとした。でも幸せそうではなくて、私は死ぬ時にはきれいな顔で幸せそうに死にたい」
泣いた。涙があふれた。
その彼女の言葉がずっと忘れられなくて、私はそれから自分は死ぬ時にどうでいたいのかを、たまに考えてしまうようになった。
18年前、耐えきれない辛いことがあり、よみがえる記憶にあがき苦しみぬいたことがあった。
どこへ行けばこの苦しみから逃れられる…よみがえる記憶を消してー そこまでやるのなら、いっそのこと私を殺してー…
私は自らどっぷりとお酒に酔い自殺を図った。
三途の川を見たような渡りかけたような…渡ったな…
「なあ、おまえ、天国っちゅうとこはそんなあまいところやおまへんで。地上に帰れ〜」
私は酔っ払い運転はしていないが、自分で自分の心を運転したので、ある意味酔っ払い運転なのかもしれない。
あの世への道すがら「息子をお願い。ちゃんと生きて成長して大人になりますように」それを繰り返していたような…
そんなこんなで私は地上へ戻され、生きる道を選ぶことになった。
それでも私は過去の苦しみから逃れられなく、その後も耐えきれない辛いことが続き、心療内科へ。
「過去にとらわれていてはだめ。未来を見なさい」
「先生、そんなことができたなら、私ここへ、クリニックへ足なんか運んでいない。そんなこと頭ではわかってる。気持ちがそうならないから苦しんでるの。そんなことができたら誰も自殺なんかしない」
先生に訴えたかったが、そんな元気はなかった。
それでも私は前を見た、見ようとした。
学校のP T Aの役員も、団地の役員も、やる人がいなければ私が引き受けた。
ダンスのレッスンに通ったり、琴のお稽古に通ったり、仕事バカになったこともあった。
しかし、前を見れば見るほど辛い思いをさせられた。
私にとって、生きるってことはしんどいこと。それしかなかった。
そんな私がどうにか頑張って生きてこれたのは、息子の存在があったから。息子が1人で生きていけるようになるまでは、何があっても頑張らないと。
そんな息子ももう、1人で生きていけるようになり、実際に1人生きている。
数年前から私は、過去にとらわれなくはなった。前を見て生きていけるようにはなった。
あの時のクリニックの先生の言葉がずっと私の頭の中にあって、どうにかそうなりたいと思って試行錯誤したし、時が解決してくれた。
時間の経過は時に残酷だが、時に優しい。
私はいつ死んでもかまわない。それだけ私は頑張ったから。間違ったこともしたし、恥ずかしいこともした。でもその時その時懸命で必死だった。目の前のいろんなことと闘って、乗り越えてきた。だからいつ死んでもかまわない。自殺はしない。しないと思う。したくはない。
今も闘い、乗り越えようと必死だ。前は見ているがしんどさと闘っている。
東日本大震災で被害に遭われたあの彼女の言葉を聞き、そして10年前の今日という日を迎え、私は生きる意味を、生きている意味を考える。
死ぬ時に後悔だけはしたくない。生きることはしんどかったとは思いたくない。しんどいことはたくさんあったけれど、最後には、生きることはしんどくなかった。
そう思いたい。
だから私はどんなにしんどくても、やるべきことをこなしながら頑張るしかない。
なぜ生きなければならないの?
「その答えを見つけるために、私たちは生きている。後悔しないために生きている」
小学生だった息子がラジオの子供相談室に電話したら、この答えがかえってきたのだそう。
だから命ある限りは生きる。
私にはもう死ぬ時の自分なりの答えは出ている。
「人生最後、しんどくはない。後悔していない」
人間が抗うことができない自然災害。人間の命があっという間に失われていく無情さを思い知らされたあの日。
彼女の言葉、クリニックの先生の言葉、夢をかなえるゾウのガネーシャの言葉、私には生きる意味を教え諭してくださる方々がちゃんといらっしゃる。
しかしなぜ、かえってきたヨッパライに登場する神も、夢を叶えるゾウの神ガネーシャも、関西弁なの⁈ それだけで笑える。
笑えてるから、今の私は大丈夫。
あと1時間ほどで10年前の今日のあの時間が訪れる。
黙祷を捧げ、被害に遭われた皆様の平和を心よりお祈り申し上げます。
