石堂下山後、天包山(標高1188.8m)に

おかわり登山しました。

 

登山口は9合目の西南戦争の碑広場です。

 

現地に着いて知ったのは、

天包山(あまつつみやま)が

西南戦争激戦地だったという歴史です。

 

薩軍は延岡の可愛岳から三田井などを経て、

九州脊梁の山々を踏破し西米良へ入りました。

「西米良村史」(1948)によれば、

「薩軍の米良駐屯は約500人、

当初村所に本営を置き板屋・西八重

上米良等の守備にあたった」そうです。

その後、西米良村内の小川・銀鏡・天包山・村所など

各地において激戦が繰り返されました。

「8月26日西郷さんは村所を出発し

須木より小林を経て9月1日鹿児島へ帰った」と

記されています。

 

 

(現地石碑より)

西南戦争の由来

明治10年2月新政府に不満をもつ薩摩藩

(鹿児島)の士族が西郷隆盛を押したてて

西南戦争をおこした。

本村からも旧領主則忠公の率いる旧士族が

薩軍に米良隊として参加し、

一般住民も夫役として参加した。

米良での戦いは、5月から7月にわたって

村内各地でくりひろげられたが、

この天包山一帯では山頂の官軍に対して

薩軍が攻撃し、戦いは熾烈を極め

その模様は遠く小川の地より砲声、砲煙と

白刃のきらめきが遠望されたという。

この山の中腹にある通称「坊主岩」には、

今もその弾痕を見ることができる。

数時間の決戦のすえ、弾丸つきた薩軍は

小川に退き身ら全家屋に火を放って

越野尾方面に移動した。

時は7月20日のことであった。

一方、薩軍本隊の西郷隆盛は、8月17日

可愛岳の戦いに敗れた後、8月17日

銀鏡から風雨の中、この天包を通って

村所に泊まり翌27日未明、菊地家旧臣の

先導によって薩摩に向かった。

終焉の日より20日前のことである。

本村の歴史上、米良の地でこうした激烈な戦いは、

この西南戦争が唯一のものであったと

言われている。

戦いが終わって百十年伝承された史実も

世の変遷とともに吾々の身辺から

遠ざかろうとしている。

この一角に往時を偲ぶとともに

両軍の無名戦没者の霊を弔い、

日本歴史の中に語り継がれた西南戦争の戦跡の

一つとして永代に伝えるため

この碑を建立するものである。

1987年2月 西米良村

(以上、解説終わり)

 

 

天包山近くには小川と村所を結ぶ米良往還が

通っていました。

その天包山を巡る攻防戦で、弾薬の尽きた薩軍は

退いていきました。

 

 

薩軍と同じように弾の尽きた私も

中洲や小倉を退きました。

お金も体力もなくなりました。

 

尻俗ことはやりません。

 

ヤマツツジ

 

 

 

 

 

 

 

 

西南戦争の碑

 

 

#西南戦争の碑 #天包山