野倉の里ミツマタの森に車を停め、

ミツマタを鑑賞した後、大祖山(標高897.7m)に

登りました。

平家山で出会った日出町の女性とご一緒しました。

この一帯も平家の伝説が残っています。

 

 

(現地解説板より)

今から約830年前、平家一門は源氏に都を追われ、

西国に下向した。

そしてついに、文治元年(1185)山口県下関市の

「壇ノ浦の海戦」で、源義経率いる源氏の追手に敗れた。

落ち延びた平家の公達の一部は、

豊後に上陸し山奥を求めて、

この地に隠れ住んだ。

しかしいつ源氏に発見されるか分からず、

更に山奥の陸の孤島宮崎県椎葉の里を

ついに探しだし、その一部は移り住んだ。

また落人達は、自分達が持参した

お家再興のための軍資金を、

平家山の松木川を挟んだ対岸の山に

隠したといわれている。

今にその山を「宝山」という。

ここには宝山八幡宮が鎮座している。

海戦で滅んだ3月24日には、

宝山の9合目あたりで、子孫の目には

財宝がキラッと光るのが見えるという。

移住した先の椎葉の里の子孫が、

江戸時代に記した巻物「椎葉山根本記」によると、

「入水之内存命之面々、申し合せ時節を窺ふて

命を全うするにしくはなし、何卒険難の地を求めて

深く忍び、天運の至る時節を待つべしと九州へ渡り、

嶮山を尋ね豊後の国玖珠之内、

山中に分け入り此処今に至り平家山といへる

よしなれ共、山浅く鎌倉へ知れ安からん事を斗り、

当国(日向国)へ迷い来て此山中に忍び入り、

向山にて暫年を経る処・・・」と

記されている。

830年の時空を超えて、野倉の里と椎葉の交流が

始まっている。

九重町龍門の滝観光協会 平成28年3月

(以上、解説終わり)

 

 

 

よく源平合戦は平家と源氏の戦いと言いますが、

どうして平「家」で、源「家」ではなく、

源「氏」と呼ぶのでしょうか?

 

源・平・藤・橘などの氏族が「氏」であり、

その中の一つの家族が「家」です。

ですから平家とは平清盛一家の家族を指し、

平氏とは桓武平氏を指します。

源平合戦で敗れたのは「平氏」ではなく

あくまでも平清盛ファミリーの「平家」です。

清盛ファミリーが滅亡しただけで、

平氏が滅んだのではありません。

たとえば鎌倉幕府の執権北条氏は平氏です。

 

では「すき家」や「不二家」は氏族なのでしょうか?

 

運動会や歌合戦などで紅白に分かれるのは、

平氏の「赤旗」と源氏の「白旗」に由来しています。

 

「赤い旗」の新聞を発行している

共〇党は平氏なのでしょうか?

 

 

口ではかなわないので、

私は妻に白旗をあげています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#ミツマタ #大祖山