竜王山下山後、四王司山の下見を兼ねて

下関市の勝山御殿に寄りました。

勝山御殿は幕末の長府毛利藩の陣屋です。

文久3年(1863)、長州藩は攘夷を決行し、

関門海峡を航行する外国船を砲撃します。

この報復としてイギリス、フランス、アメリカ、

オランダの連合艦隊は元治元年(1864)8月、

馬関と彦島の砲台を徹底的に砲撃、

陸戦隊がこれらを占拠・破壊しました。

この動きの中で海岸に近い長府陣屋は危険なため、

急いで内陸の勝山に陣屋を築きました。

元治元年(1864)2月に入城し、廃藩置県まで存続しました。

 

 

(現地解説板より)

国指定史跡 勝山御殿跡

~幕末、外国艦隊からの攻撃に備えた

長府藩の拠点城郭~

【発掘調査で判明した勝山御殿の姿】

勝山御殿は南北の谷あいの地形に沿って

階段状に郭を重ねる平面形態(縄張り)です。

発掘調査で見つかった城塁から、

三の丸と二の丸は、砲撃戦を想定し

西洋式の砲台の造りであることに対し、

本丸は伝統的な日本式城郭の造りで

あることがわかりました。

そのほか建物跡なども発掘され、

古文書や絵図、残された移築建物とあわせて

当時の御殿の概要が復元できるようになりました。

【藩主の居るところ<本丸御殿の造り>】

勝山御殿の本丸は、南北方向に上下2段に

区画されていました。

そこには、砲撃の目標となる櫓などは設けず

平屋の殿舎が建てられていました。

本丸南側にある殿舎を「表」とし、

藩主の寝所、御座之間のほか、

政務を執り行う公的な施設として

使用されていました。

また、本丸北側の上段の区画に建てられた

殿舎を「奥」とし、藩主夫人をはじめ

家族の居室として使用されていました。

2020年10月 下関市

(以上、解説終わり)

 

私の自宅も御殿と呼ばれています。

なお私の性格は、「表」と「裏」はありません。

 

 

さて攘夷とは外国人を撃退し、

日本から追い払うことです。

私も攘夷を実行し、金髪のおねーちゃんに

床の上で大砲をぶっ放し、

ぎゃふんと言わせてやります。

 

 

返り討ちされますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#勝山御殿 #長州藩 #下関市