大己貴神社前の歴史の里公園に車を停め、

目配山(標高405m)を巡りました。

大己貴神社は仲哀天皇9年(200)の

創建と伝えられています。

神功皇后が新羅征討を起こすにあたり、

兵士がなかなか集まらないため、

大三輪社を建て刀と矛を祀まつりました。

その大三輪社が起源とされます。

 

また一説には神功皇后が討伐した

羽白熊鷲を鎮魂するために建てたと言われています。

私には、熊鷲鎮魂説の方がしっくりきます。

 

 

(現地解説板より)

神功皇后と羽白熊鷲(説話)

所在地 筑前町弥永字谷口459-1番地

(歴史の里公園)

昔、羽白熊鷲という在地の豪族が

本拠を朝倉市秋月の「荷持」(野鳥)に構え、

筑前町一帯を支配していました。

熊鷲は白い鳥の羽根を付けて鷺舞いを演じ、

「まつりごと」を行う鳥装の司祭者です。

ある年、ヤマトの国から神功皇后がやって来て、

香椎(福岡市東区香椎)に宮を定めました。

そして、皇后は朝鮮半島の新羅と戦うため、

各地の豪族に命令を出し、

多くの兵士を集めさせました。

しかし、熊鷲はこの命令に従いませんでした。

皇后はたいそう怒り、新羅出兵の前に

熊鷲を征伐することにし、軍隊を香椎の宮から

朝倉地方へ進軍させました。

皇后軍は筑前町の砥上方面から熊鷲の領地へ進攻し、

森山峠を越えて、栗田に到着したと想定されます。

しかし、皇后は栗田で行軍を一旦停止させ、

「松峡」(筑前町栗田字松尾)に宮を定めました。

決戦は「層増岐野」(注ぎ野・・新町・

高上付近)で行われました。

そして、皇后は熊鷲を征服し、「我が心安し」

(私は安心した)と語りました。

この「安」が当地方の郡名起源とされ、

後に「夜須」(郡)の二文字に改められました。

熊鷲平定後、新羅出兵の兵士はなかなか集まらず、

皇后は「大己貴神社」(大神屋敷)に社を建て、

矛をささげました。

これは、勝者が打ち込んだ楔、あるいは熊鷲への

鎮魂だったのでしょうか。

いずれにしても、熊鷲という在地豪族が

ヤマト(中央)政権に組み込まれていく

過程を物語るのでしょう。

弥永周辺は、広い扇状地の要に位置し、

古代の雲堤(溝)郷に想定されています。

かつて、草場川から依井~上高場にかけて

「千間溝」(千八百メートル)があったといいます。

ただ、何時、誰が掘らせたのか、既に江戸時代には

わからなくなっていました。

皇后が四方に目を配ったという「目配山」

(山頂に皇后腰掛け石)は「水分山」の

転訛とも考えられ、そうであれば水利権を

掌握する権力機構の存在も想定できます。

仮に、この「千間溝」を古代の造営とすれば、

その築造者は、弥永の大己貴神社の大神さま

(羽白熊鷲と同一人物か)、あるいは久光にある

仙道古墳(6世紀後半)の被葬者が想起されます。

また、吹田に「鷲尾塚古墳」(5世紀)、

朝倉市の矢の竹に「熊鷲塚」などの伝承地があります。

参考文献「古事記」・「筑前国風土記逸文」・

「日本書紀」および「筑前国続風土記」の伝承等

平成23年3月25日  筑前町教育委員会

(以上、解説終わり)

 

 

日本書紀によれば、羽白熊鷲(はじろくまわし)は

強健で翼が有り、高く飛ぶことができました。

おそらく熊鷲(くまわし)はその名が示すように

猛々しい武人だったのでしょう。

しかし神功皇后に従わなかったので

討伐されました。

 

 

もし私に名を付けるなら、熊鷲というより

「手回し」や「後回し」ですね。

「根回し」は得意ではありません。

熊ではなく、猿回しでもありません。

 

 

松本人志さんや椎野カロリーナさんにとって

週刊文春は「忌まわし」ですね。

ミス日本コンテストでグランプリに選ばれた

ウクライナ出身の椎野カロリーナさんは、

文春に不倫報道されてグランプリを辞退しました。

 

美人は何をしても許してやりたいのですが・・・

 

 

 

 

大己貴神社

https://www.oonamuchi-jinja.or.jp/

 

 

 

 

#神功皇后 #大己貴神社 #羽白熊鷲

#歴史の里公園