夜更かしした妻が就寝するのを待って

自宅を出ました。

起きていたら、何を言われるか

わかりませんからね。

天気予報は午後から雨だったので、

近郊の低山の中から目配山(標高405m)に

しました。

八丁トンネルが開通して、朝倉地方が

近くなりましたからね。

 

大己貴神社前の歴史の里公園駐車場に

車を停めた後、大己貴神社に

ご挨拶しました。

 

 

(現地解説板より)

大己貴神社(おおなむちじんじゃ)

所在地 朝倉郡筑前町弥永字大神屋敷

祭神 大己貴命・天照皇大神・春日大明神

祭礼日 2月11日・7月22日・10月23日

地元では「オンガサマ」と呼び親しまれています。

このお宮は神功皇后の伝承地で、

皇后が新羅(大陸)との戦のとき、

兵が集まり難かったので、

兵が集まるように社を建てて祈願したとのことです。

このときの社が、この神社であるとされ、

我が国で最も古い神社とされています。

社殿・拝殿は町の重要文化財に指定され、

江戸時代末期から明治初期の建造物で、

原形は八幡造でしょう。

二棟の切妻造、平入りの建物が

前後に接続した形をしています。

しかし、建物の中間に石の間をおき、

前面の建物が拝殿、後ろの建物が神座です。

拝殿には唐破風の向拝がついています。

平成21年3月

筑前町教育委員会 

(以上、解説終わり)

 

 

(現地解説板より)

大己貴神社

式内社で『延喜式神名帳』に

「於保奈牟智神社」と記載されている。

『日本書記』によると「仲哀天皇9年秋

9月庚午朔己卯、神功皇后諸国に令して、

船舶を集め、兵甲を練らる。

時に軍卒つとひかたし。

皇后の曰、必神の心ならんとて、

大三輪社を立て、以て刀矛を奉り玉ひしかは、

軍衆自聚る」と神功皇后とこの神社との

説話が記されている。

また、江戸時代の『筑前国続風土記』の中に

「9月23日祭禮あり。此日神輿御神幸あり。

御旅所は村の西十町計に

さやのもとと云う所あり。(中略)」

然れ共夜須郡東部の総社なれは、其敷地広く、

産子殊に多くして、人の尊敬浅からず。」

現在、10月23日の秋季例祭の記載がある。

同じく江戸時代の『太宰府管内志』の中の

「筑前神社志に皇后(神功皇后)より後に

嵯峨天皇弘仁2年勅願有て御建立あり

其後661年を経て後の

土御門院文明3年勅願として御建立あり

其間数度造替ありといへども

詳らかならず伝われる縁起記録類は天正年中

兵火にかかりて尽く焼失す天正15年より

96年の間かり殿に居ましける

寛文12年石鳥居建立祭禮信幸の儀式

同13年に再興す本社貞享4年改造す

拝殿は元禄5年建立同6年社領少

黒田甲斐守寄附し給へり。神職松木氏

先祖より寛永2年まで62代相続せり」とある。

また、『筑前国続風土記附録』に

「此村及び甘木。隈江・楢原・

甘水・持丸・菩提寺・千代丸・牛木・

馬田・高田・野町・依井・大塚すへて

14村の産神にして。夜須郡の惣社也」とある。

平成26年12月

筑前町

(以上、解説終わり)

 

 

大己貴神社は新羅討伐の兵士が集まらないために

神功皇后が大三輪社を建て太刀・矛を奉納したところ

たちまち兵士が集まったという延喜式内社で、

社格は旧縣社です。

 

 

さて合コンにおねーちゃんが集まらない

アテンド芸人は神社を建て、

太刀や矛を奉納すれば、

たちまちおねーちゃんが

集まるかもしれませんね。

 

 

どなたか私にもおねーちゃんを集めて

合コンのアテンドをしてくれる人はいませんか?

 

 

超大物吉本芸人と同じで、私も素人が好みです。

 

歴史の里公園

 

 

大己貴神社

 

 

 

 

 

 

 

大己貴神社

https://www.oonamuchi-jinja.or.jp/

 

 

 

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