紅葉シーズンの後半は、

毎年、耶馬渓に出かけます。

今年は檜原山(標高734.9m)を選びました。

溶岩台地を山国川などが刻んで生じた耶馬渓は、

集塊岩・旧耶馬溶岩のつくる奇岩怪石の旧耶馬渓と、

新耶馬溶岩のつくった直立の岩壁と

林立する石柱の新耶馬渓に分けられ、

前者は本耶馬渓・羅漢寺渓・津民渓・奥耶馬渓など、

後者は深耶馬渓・裏耶馬渓・南耶馬渓などの

景勝地となっています。

また溶岩台地は侵食によって

多くのメサやビュートが形成され、

特に檜原山(ひばるさん)は

メサの上にビュートをのせた特徴的な地形となっています。

ビュートの岩峰の檜原山には、修験道が栄え

福智山、求菩堤山、松尾山、蔵持山、

平尾台(普智山)とともに

英彦山の末山である彦山六峰でした。

メサ台地上には修験道場であった

檜原山正平寺が現在も残っており、

檜原山の登山口となっています。

 

 

昔の修験者は山に籠って修行しましたが、

いまだに私は人生の修行中です。

 

(桧原山由緒石碑より)

崇竣天皇御即位元年(西暦587年)

釈正覚上人が初め犬ヶ岳に長福寺を創立し、

その後寺を当山に移し一寺を建立したのが

当寺の開創である。

 

天平勝宝四年(752年)勅願所と定められ、

以来山を「桧原山」、寺を「正平寺」と称するようになった。

安和二年(969年)大講堂が建立され、

以来、国府の所管するところとなり、

鎮護国家の祈願道場として

豊前山岳仏教の修験霊場として

英彦山・求菩提山と共に隆盛をきわめた。

 

大字中畑、福土の二村が寺領であったが、

黒田氏中津城主の時(1587年)

米百石を附して没収された。

細川、小笠原氏を経て、奥平氏に至り、

山上における全ての堂宇の営繕を負担され、

奥平富之進昌高氏は天明七年(1787年)

上宮本堂を建立された。

 

明治初年正平寺を本寺として九ヶ坊の末寺を有したが、

明治維新の変革により山林全部を国有林に編入され、

明治11年3月庫裡消失、

同21年山火事により上宮本堂を焼失したため、

石龕三宇を建立して本尊を安置している。

明治23年宗達により大分県下一円

福岡県京都郡と併せて天台宗務支所となった。

 

明治29年、又不幸にして大講堂・鐘楼・みこし三体

当寺縁起、その他宝物一切を焼失し、

現在の講堂は明治35年に復興したものである。

平成13年、県下最大の梵鐘が復興された。

 

県指定無形民俗文化財である「お田植祭」は

神仏習合の名残をいまに伝える貴重な行事である。

(以上、解説終わり)

 

 

明治維新後、修験道禁止令により

本山の英彦山は英彦山神宮として残りましたが

檜原山は正平寺として仏教寺院の形で残りました。

 

神仏習合は神仏混交ともいい、

日本固有の神の信仰と渡来の仏教信仰とが

融合したもので、天照大御神と大日如来、

須佐之男尊と薬師如来は同一とされました。

 

私のことを日本のブラッド・ピットと呼ぶのも

神仏習合の考え方に沿ったものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#檜原山 #耶馬渓