四国では四国八十八ヶ所霊場巡りをしましたが、

大洲城、川之江城、湯築城とお城巡りもしました。

 

 

最初に大洲市の大洲城に行きました。

大洲城は、元弘元年(1331年)鎌倉時代末期に

伊予国守護の宇都宮豊房によって築城されました。

豊臣秀吉による四国平定後は、小早川隆景、

戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が

相次いで城主となりますが、

近世城郭として本格的な整備が行われたのは、

藤堂・脇坂の時代と考えられています。

元和3年(1617)、伯耆国米子から

加藤貞泰が入城して以降、

明治2年(1869)の版籍奉還まで

大洲藩加藤家6万石の居城となりました。

明治維新後は、櫓や天守閣は次々に失われましたが、

平成16年(2004)に天守が木造により復元されました。

 

城内には江戸時代の陽明学者中江藤樹(1608-1648)

の銅像が建っていたので、

大洲藩とのかかわりを調べてみたら、

中江藤樹は元大洲藩の武士で

10歳から27歳まで大洲に住んでいたそうです。

藤樹は陽明学の確立と「知行合一」の道を実践し、

「近江聖人」と称えられました。

代表的な門人として、熊沢蕃山、淵岡山、

中川貞良・謙叔、泉仲愛がいます。

 

中江藤樹と熊沢蕃山との間には

次のような逸話が残っています。

 

「馬子の正直」

200両(現在の価値で3000万円くらい)もの

大金を馬の鞍につけたまま

馬を返してしまった加賀の飛脚は、

「もう、これは死ぬしかない」と、

悲嘆に暮れていたときに、

当の馬子が、約30kmという長い距離を走り、

落とし主に大金を届けてくれました。

落とし主の飛脚は、大変喜び礼金を渡そうとします。

しかし、馬子は「私は、藤樹先生の教えを実行したに過ぎない。

お礼などいらない」と断ります。

これを見ていた熊沢蕃山は、正直な馬子と、

その師である中江藤樹に感動し、

すぐに藤樹に入門を申し込みます。

しかし、「私の学問は、出世のための学問ではない。

修身のための学問なので、

出世のために学問を修めようという人の入門は認められない。」

と、藤樹に入門を断られます。

そこで蕃山は、藤樹の家の門前に2日間座り込み、

ようやく入門が認められたそうです。

(終わり)

 

 

中江藤樹は「人生の目的は利得ではない、

正直である、正義である」と説きました。

 

 

私も正直者です。

妻に正直に「料理がまずい」と伝えました。

 

そして妻の逆鱗に触れました。

 

 

高欄櫓(国重文)天主(復元)台所櫓(国重文)

 

中江藤樹像

 

 

 

 

下台所(県指定重要文化財)

 

大洲城

https://ozucastle.jp/

 

#大洲城 #中江藤樹