藤の花が有名な香月の吉祥寺に行ってきました。
吉祥寺の藤は、野田藤、白藤、紅藤、
縁紅藤、八重黒龍藤等10本あり、
うち3本が北九州市保存樹に指定されています。
藤棚の下を歩くと藤の花の甘い香りが
強く香ってきます。
浄土宗の誕生山吉祥寺の開山は、
法然上人に次ぐ第二祖師である
鎮西上人(聖光房弁長)です。
鎮西上人は豪族香月一族の出身で、
難産で没した母の菩提を弔うために
産屋の跡に寺を建立しました。
(現地解説板より)
求道鎮西旅立ちの像
承安5年(1175年)3月15日、
聖光房弁長14歳の時
日本三戒壇の一つ筑紫の
観世音寺戒壇院に於いて登壇受戒し
比丘(僧)となる同じ年の3月14日
法然上人42才で浄土開宗の年であり
法然鎮西劇的な年である。
この像は向学心にもえ、道を求めて
登壇受戒に旅立たれる姿を表したものである。
その後、香月の庄に帰り
白岩寺唯心法師に師事し
三ヶ年天台を学す。
(以上、解説終わり)
上人は7歳で菩提寺の大日寺で勉学を始め、
9歳で剃髪出家し、聖光坊弁阿弁長と名乗りました。
承安5(1175)年、14歳で筑紫の観音寺で戎を受け、
飯塚市の明星寺などで天台の勉強に励みました。
この頃、彦山へ40kmの距離を日参し、
千日詣りをしたとされます。
寿永2(1183)年、22歳で比叡山に赴き、
8年間修行した後に
建久2(1191)年に油山の学頭となりました。
その頃、明星寺に立ち寄られた際に
異母弟三明房と談笑中、
突然、三明房が顔面蒼白となって倒れ、
そのまま帰らぬ人となりました。
弟の突然の死により上人はこの世の無常を感じ、
極楽浄土を願う念仏行者になったといいます。
鎮西上人は嘉禎4(1238)年、
多くの弟子に見守られ
77歳でお亡くなりになりました。
上人は法然上人と出会ってから
77歳でお亡くなりになるまで、
1日も欠かさず毎日6万遍の念仏を唱えられたそうです。
私も1日も欠かさず毎日、独り言を唱えています。
異母弟三明房はおそらく
心疾患などの
循環器系での突然死だったのでしょう。
私も循環器系の疾病で
突然死になりかけたことがあります。
直近4年間で3回、救急車搬送されました。
私はきれいなおねーちゃんの前で
心臓がバクバク・ドキドキしないよう
気を付けています。
妻の前では、怒られないように
ハラハラしています。
#吉祥寺 #鎮西上人