仕事の合間を利用して

馬ヶ岳(標高216m)に行ってきました。

大谷登山口から二の丸(東峰)を経て、

山頂(西峰)に向かいました。

かつて山頂には馬ヶ岳城が築かれ、大内氏、

大友氏、長野氏など様々な勢力が

争奪戦を繰り広げていました。

 

豊臣秀吉の九州平定後、豊前6郡は

黒田官兵衛に与えられ、

官兵衛が中津城に移るまでの居城

としていました。

 

 

 

(現地解説板より)

馬ヶ岳城の歴史

馬ヶ岳城は、行橋市とみやこ町の境に聳える

標高216mの馬ヶ岳と、

その山麓に築かれた中世の山城です。

室町時代から戦国時代まで大内氏や

毛利氏や大友氏などさまざまな勢力が

この城をめぐって合戦を繰り返しました。

九州平定の際に豊臣秀吉が宿泊した城であり、

黒田官兵衛(孝高・如水)の九州最初の居城

として知られています。

 

今も残る山城のあと

馬ヶ岳には、土塁・堀切・畝状竪堀群などの

山城の遺構が今も残っています。

西側の峰を本丸跡、東側の峰を二ノ丸跡と呼んでおり、

二ノ丸から北に下りる尾根には、

約700mにわたる土塁や、

50本以上の畝状竪堀群が残ります。

馬ヶ岳城は土塁などの防御施設が山麓部にもあり、

中世から近世への城郭の変遷を

考える上でも重要な施設です。

(以上、解説終わり)

 

 

(現地解説板より)

馬ヶ岳城跡の土塁と畝状竪堀群

馬ヶ岳城は、豊前地方の重要拠点として

攻防の舞台となってきた。

九州平定に際して、

戦国時代の天正15年(1587)年、

豊臣秀吉は、小倉城を経て、

馬ヶ岳城に滞在し、当城を拠点とした。

馬ヶ岳城の北側山麓から中腹部分には、

高さ2~3m、全長500m以上の長大な

「土塁」50本以上からなる

多くの竪堀群で構成された「畝状竪堀群」が

築かれている。

「土塁」と「畝状竪堀群」のセットは、

この豊臣秀吉御着座に際して

増築された防衛施設と考えられる。

北部九州における「山城」から

「平城」への城郭構造の変遷を知る上で

重要な遺構である。

行橋市教育委員会

(以上、解説終わり)

 

 

黒田官兵衛は竹中半兵衛とともに

「羽柴の二兵衛」と呼ばれました。

 

ならば、うっかり八兵衛や日清のどん兵衛は

何と言うのでしょうか?

 

 

ちなみに私は、助兵衛ではありません。

 

二ノ丸跡

 

 

 

 

 

 

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