私が救急車で搬送される数時間前、
行橋市の水哉園(村上仏山)に
立ち寄りました。
(現地解説板より)
福岡県指定文化財
仏山塾(水哉園)跡
仏山塾(水哉園)は天保6年(1835)
儒学者、村上仏山が開いた私塾です。
村上仏山(諱は剛)は文化7年(1810)
この地に生まれました。
幼時、地元の神官定村直栄に学び、
15歳から秋月の原古処、博多の亀井昭陽、
さらに京都など各地で学んだ後、
26歳でこの塾を開きました。
仏山塾は全寮制で厳しい塾則があり、
試験による進級制度を取り入れていました。
文学と漢詩文を中心とした講義を通して
人間づくりに重きを置いた教育が行われました。
明治12年(1879)に仏山が70歳で没した後も
養嗣子の静窓に受け継がれ、
明治17年(1884)まで50年間続きました。
その間、全国各地から3千人もの
入門者がありました。
なかでも末松謙澄、安広伴一郎、
吉田増蔵(学軒)など中央で活躍した人をはじめ、
狭間畏三、守田蓑洲、杉山貞といった
この地方の先達者など、数多くの優れた
政治家、学者、名僧、医師が巣立っていきました。
仏山は、日本の漢詩壇をかざる大詩人でもあり、
著書「仏山堂詩鈔」(全3篇9冊)は、
私塾の教科書として広く
各地で用いられました。
末松謙澄(1855~1920)
伊藤博文の知遇を得て官界に入りその後、
逓信大臣、内務大臣を歴任しました。
学芸の分野でも活躍し、
初の「源氏物語」英訳や「防長回天史」の
編集などの業績をのこしました。
安広伴一郎(1859~1951)
山県有朋に認められ、官営八幡製鉄所長官、
法制局長官、枢密顧問官を歴任するとともに
南満州鉄道社長(総裁)に就任しました。
吉田増蔵(1866~1941)
漢学に秀で、宮内省に入省し
「昭和」の元号を考案するとともに
漢学字源の研究にも
大きな業績を残しました。
行橋市教育委員会
私が私塾を開くとすれば
入門者はかわいいおねーちゃん限定にします。
塾則は恋愛禁止、規則を破れば破門ですね。
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