靖國神社「遊就館」に奉納された

96式15糎榴弾砲についてです。

 

榴弾砲とは、同口径の加農砲に比べて口径に対する

砲身長が短く、低初速・短射程であるが

軽量でコンパクトな大砲です。

 

 

(現地解説板より)

九六式十五糎榴弾砲

この火砲は野戦重砲兵第一連隊第四中隊に

所属し、沖縄防衛戦に奮戦したが、

糸満市真壁の陣地において

昭和二十年六月二十三日、全弾を撃ち尽くして

中隊は砲とその運命を共にした。

この榴弾砲は、六トン牽引車による

迅速な移動と強力な火力をもって

機械化砲兵と呼ばれた。

連隊は昭和十四年のノモンハン事件で

ソ連砲兵と戦火を交えた後、

東満州の黒河省神武屯で国境警備に任じた。

大東亜戦争勃発するや比島に進出し、

パターン・コレヒドールの戦闘に偉功を立て、

再び神武屯に帰還した。

十九年沖縄に進出し翌二十年六月玉砕した。

戦後米軍に回収され沖縄の

在郷軍人クラブに展示されていたが、

関係者の熱意と米国側の好意により

昭和四十一年四月二十九日、

英霊の奉恩のため靖國神社に奉納された。

 

 

野戦重砲兵第1連隊(球第4401部隊)

沖縄防衛軍の主力重砲部隊として

連隊長山根忠陸軍大佐以下、

全ての弾薬を撃ち尽くし砲が撃破されるまで奮戦し、

最終的に歩兵として6月22日に挺身斬込を敢行し玉砕しました。

喜屋武半島真栄里の高台にて、第8海兵連隊を

視察中の第10軍司令官(沖縄方面最高指揮官)

サイモン・B・バックナー・ジュニア米陸軍中将を

砲撃し(第2大隊)、戦死させたことでも有名です。

 

その沖縄戦で野戦重砲兵第1連隊は、

山根部隊長以下739名、

及び配属鉄血勤皇隊員12名が戦死しています。

ただしバックナー米陸軍中将を砲撃した人物は

生き延びました。

榴弾砲を放ったのは、当時、中隊長だった

石原正一郎大尉です。

部隊が位置していたのは、高台から北に

1300メートルほど離れた地点で、

大砲を2門草木で隠して米軍が来るのを待っていました。

そこに、米軍のジープが来て

敵が降り立ったのを見届け、

砲弾を放ったのでした。

バックナー陸軍中将の戦死後、

激怒した米軍将兵は

報復のため残虐行為を行っています。

 

 

米陸軍省戦史局編集の公式報告書

「OKINAWA: THE LAST BATTLE」で米軍は、

「沖縄で支払った代償は高価なものであった。

アメリカ軍の死傷者の最終的な対価は、

日本軍に対するどの方面作戦で経験したものよりも高かった」

「勝利の高い代償は、予想以上の強力な戦力を持って

巧みに先導された日本陸軍と戦ったこと、

厳重かつ巧妙に要塞化された難しい地形を越えたこと、

故国を何千kmも離れて戦った事実によるものだった」

「作戦は予想していたより遙かに長引いた」

と総括しています。

 

遊就館

http://yusyukan.yasukuni.jp/

 

 

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