湯の鶴温泉にも行ったんだった | 私の記録

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食に興味の無かった私が一転、妊娠7か月にいきなり過食脳が出来て爆発しました。
それから25年。未だに意味不明な過食脳に苦しみ中ではあります。が、
与えられたすべての人・環境・物に感謝心が湧くように成れてきました。だから幸せです。

昨日の母の飯

玄米餅が冷凍庫に眠っていた。

もちろんまだ新たな半額パン🍞もコンビニ🍙おにぎりも眠っている。でも

飽きを回避する為に餅にする。

 

マスクメロンが直売所で300円だった。

プラムは小さな5個で150円。

前夜はそれらもすりおろし仲間に入れた割焼酎🍹にする。

 

昨日お土産を買い荷物を送ったその足で

再度山の神のところへ向かう。

なんとなくそうしたくなった。

 

帰宅して一服☕️甘々豆乳カプチーノタイムを取り、

なんとなく着物を着たくなって着た。

また着物が増えている…と思ったら、

亡くなった方のご家族が持ってきたという。

うちの母に、生前随分と着物を世話してもらったとのこと。

「小雪母さんにもらっていただければ…」と

お亡くなりになったご家族が袖を通したものを、

処分する氣になれずという話だった。

なんとありがたい。状態もかなり良い。

 

2階に戻り、ガサゴソと桐箪笥を漁っていたら…

辻ヶ花の着物と帯が出てきた。

こんなものも持っていたのか。

私ごとき中途半端には勿体無い。

もっとちゃんとあれこれと和服を学びたくなる。

 

 

なぜだろう。

 

実は私も母も着物が好きではなかった。

特に母はチャラかったから、今だったらキャバ嬢のような格好を望んだに違いない。

 

ところがある日。

氣が弱いくせに亭主関白だった父に「明日から和裁を習いに行け」と命じられる。

教師仲間に和裁の先生をしている家族がいて、

話を合わせるために「うちの家内がやりたがっている」などと嘘をついて話を合わせたらしい。

後に引けなくなり、帰宅した父は母にそう命じたのだ。

 

それがきっかけで、母は着物を縫いだした。

自分で縫った着物だ。当然着たくなる。

その頃の母は自分で着物を縫い上げはするが着れなかった。

それで今度は着付けを習いに行く。

 

当時の名前は京都きもの学院だった。

母はそこで、免許皆伝まで行ったら打掛が着れることを知る。

初日、そこだけしっかりとインプットして帰宅した。

結婚式を挙げられないでいた彼女はもう、打掛を着たい一心であっという間に免許皆伝まで上り詰める。

そしてものっっっっっすごいニッコニコ顔の打掛姿の若い母が、

大きな一枚に収まることとなる。

自分を飾りたい欲しかなかったと言うわけだ。

 

 

人生には何が転がっているか分からない。

取るに足らない踏み潰すだけの石ころが、

大きな財産に繋がったりしているものだなと思う。

案外今の大成功が小さな石ころだったりするのかも知れない。

 

 

小さな一つで良いんだな。

それがまた幸せだったりするし。

ちょっと負け惜しみ的な思考しか持てなくても良いのだと知る。

 

 

 

これから東京に戻る。

この場所と母と離れるのは辛いけれど、

これも試練で、私に必要なことなのかも知れない。

 

自然と願う。

 

どうかどうか、母を守ってください。

恵まれてはいると思うけれど、

彼女がずっと元氣で幸せに暮らせますように…

 

また来るから👋

頼むから幸せでいてね。