お釈迦様の誕生日・「詩」谷川俊太郎 | 真宗大谷派了覚寺日記

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群馬県、赤城山の麓のお寺日記。
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あったかいような、でも家の中はひんやりなこの頃・・・

 

桜は散ってしまいましたが、境内のチューリップは元気に咲いています照れ

 

 

 

トイレ前ってのが、ナンですけど・・・

 

 

 

さて。

 

 

 

ピンク薔薇今日は、お釈迦様がお生まれになった日です。クラッカークラッカー

 

 

誰にとっても誕生日は特別で、「いのちについて」「生まれてきたことについて」考えさせられますね。

 

だって、気がついたら、もう生まれちゃってたんですから・・・

 

生きてることが理解できるようになる頃には、もうすでに何年もたっちゃってるんですから、今さら選びようがない。

 

だからせめて、なのか、人はどうしても、生きてることに意味を見出さずにはおれないですね。

 

これを「業」ごうというんだそうです。

 

人の、持って生まれた切ない「業」・・・なんだか重たいですけど。

 

でも、そうはいっても、大体において、そんなこと私たちは考えずに生きてます。

 

忘れてますし、気にするつもりもなく、目の前の問題に取り組みながら生活しています。

まあ、そういうもんです。

 

ただ、それに真っ正面から取り組んだ人がいる。その、元祖がお釈迦様です。

 

お釈迦様自身も、そうやって自分に意味を見出さずにはおれなかったわけだし、一生懸命見出していったのでしょう。

 

「道」と言われます。その、心を「求道心」道を求める心、と。

 

そして、私たちに「一緒に探して行きましょう」と、呼びかけられている。

 

自分足で立っていけるように。明日もなんとかやっていけるように。

 

人ひとりの人生だから、簡単なおまじないのような言葉なんてのはない。

 

立って歩けるまでには時間がかかる。立って歩けるかもわからない。

 

でも、いつでもここにいるよ、とそばにいて、心の中にいて、励ましてくれる。

 

まあ、そういったもの。を、お釈迦様自身が一生懸命、探したんです。

 

見つかりましたかね?

 

 

見つかったんでしょうね。

 

「阿弥陀」のハタラキだよ、と教えてくれています。

 

人間が、人間として生まれてきたからこそ見出していけた、力だよ、と。

 

まだまだ、勉強中です。

 

 

さよならは仮のことば

            谷川俊太郎
夕焼けと別れて
ぼくは夜に出会う
でも茜色の雲はどこへも行かない
闇に隠れているだけだ
 
星たちにぼくは今晩はと言わない
彼らはいちも昼の光にひそんでいるから
赤んぼうだったぼくは
ぼくの年輪の中心にいまもいる
 
誰もいなくならないとぼくは思う
死んだ祖父はぼくの肩に生えたつばさ
時間を超えたどこかへぼくを連れて行く
枯れた花々が残した種といっしょに
 
さよならは仮のことば
思い出よりも記憶よりも深く
ぼくらをむすんでいるものがある
それを探さなくてもいい信じさえすれば
           
 

 

「詩」は、その力を、言葉にとして表現しようとしているものだ、

 

と私は勝手に思っています。