私たちは時に自分ではどうにもできない問題をなんとかしようと悩み続けてしまうものです。
しかし時にはどうする事もできない問題はどうする事もできないと諦める事も大切です。
なぜならそうする事で心はスッと楽になるし、肩の荷だって少しは下りるからです。
「知りえない事は知りえないと知る」ことは何もそのものを否定する事ではありません。
神や宇宙について人間にはわからないからといって、神や宇宙が存在しないという事では決してないのと同じです。
仏教では「是とも非とも答えを出さない事」を「無記」と言いますが、これはわからない事は「答えない」という事です。
考えても仕方ない事は考えない。わからない事をわかろうとしてもわからない。
それならば諦めて今を生きた方がいい。
なぜなら私たちの人生は限られているからです。
仏典には「毒矢のたとえ」という有名なこのような話があります。
ある男が毒矢で射られた。
みんなが心配して急いで医者を呼んできて医者がまず矢を抜こうとしたら、その男が叫んだ。
「この矢はどういう人が射たのか?背の高い人か低い人か?町の人か村の人か?この矢にはどんな毒が塗られていたのか?」
「これらの事がわかるまでこの矢を抜いてはならない」と。
もしこのように毒矢が刺さった時にその矢をめぐって議論ばかりしていたら、男は毒が回って死んでしまうだろう。
わからない事をわかろうとする問いもそれと同じです。
もし神は存在するとかしないとか宇宙の真理について答える事ができる人がいたとしても、その人にも生老病死の苦しみがあり、さまざまな憂いや悩みがあるのです。
この「毒矢のたとえ」の話は毒矢が刺さった時にその矢をめぐって議論ばかりしていたら死んでしまうでしょう。
「矢を抜くことが先だ」という戒めです。
わからないことはまだまだたくさんあって、解決できないことを議論しているうちに死んでしまうでしょう。
だから、わからない事はわからないと諦めて今ここを生きよう。
私たちは今この瞬間を生きているのだから。