株の話の続きを書く。

 

『プロ相場師の思考』という本がある。

[「運」と「ツキ」の考え方]という副題がついている。

著者は高田智也という人、この本を読んでみた。

本のプロフィールには「六年で平均金利80%」とある。

金利80%というのは一年間で10万円が18万になるという意味。

これは、別に相場師でなくても、それほど難しい数字ではない。

六年連続はちょっと大変かもしれないけれど。

 

それでも、人生の中に[株式相場]を取り込むということが

何を意味するか、この本に書かれていた。

「相場の敵は自分のなかにいる」という小見出しがついている。

こういう文章だった。

 

このあいだ、相場に強い人の多くは、しっかりと自己分析ができていることに気がつきました。私は自分を客観的に見ることが得意です。「自分は、人からどう思われているのか」「今、自分はどのポジションにいることが最も適当か」このような問いに対して自分が下す評価はものすごく当たっています。そこには過大評価も過小評価もありません。自分の能力を過大評価して壁にぶち当たることはないですし、自分の器量に合わない夢は持ちません。

例えば、日常生活においては「何を着ても似合わない」ので、「必要以上に服装にこだわらない」、「品がなさそうに見える」ので、高級車に乗らないという結果が出ます。また、自分が相場をやるにあたっては、「好きなこと以外は集中しない」「すぐに退屈する」「もの覚えが悪い」という欠点を羅列し、次によいと思える「本が読める」「大きな目標のためには地道な努力をする」「好きなことには集中できる」ことを分析しました。相場をする際、この自己分析が何かを決めるときのベースになっています。

私は自分の欠点が、相場においてどれだけ影響を与え、自分の長所を生かすにはどのようにしたらよいかを常々考え、投機対象、戦略、テクニカルの種類などを考慮しているのです。

客観的な目が、大きな役割を担っていてくれるからこそ、今、自分はこの世界で何とかご飯が食べられているのだと思います。これは数少ない自信のうちの一つです。多くの人から、「それでは自分の可能性を狭めている」と言われるのですが、私は逆に、この目が相場にいさせてくれるのではないかと思っています。自分を過大評価も過小評価もしないというスキルは、色々な要素を自分で決める必要のあるこの世界では、大きな武器になります。

相場は上手になるに従って、「敵は自分のなかにいる」とわかってきます。自己評価が甘かったり、間違っていたりすると、あまりよい結果にならないと思うのです。

 

引用が長くなってしまった。それなりに共感できるところもある文章だった。

しかし、実はAmazonのなかにこの本の感想文にこういうのがあった。

☆(星)ひとつの評価で、酷い書かれ方をしている。

 

この男をパンローリングのセミナー会場で一度ナマで見たことがある。なかなか、わかったような事を書いてるので、念のため、どんな容姿かこの目で確かめたが、予想通り。リンカーンは、”男は40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て”、大宅壮一は”男の顔は履歴書”と言ったが、やはり、胡散臭い男という印象に間違いはなかった。

 

一方、こういうことを言っている人もいた。

この人は☆☆☆☆☆の評価。

 

この人はマジで相場で食ってる人だなってのは、文章でわかりました。情報について、規律について、予想や予測について、チャートについて、システムの構築について、売買の方法論(著者は戦略と言っています)の比率について、損切りについて。
以上については、実際に相場で食べている人が持つ実感(あるいは考え方)と、それ以外の人の机上の想像(世間常識ともいいます)とでは、特に乖離しがちな部分です。著者はさすがに的を外していなかった。これを論拠として、この人は「マジで相場で食ってる人だな」と判断しました。

 

わたしに言わせると、この本、著者があれこれ喋ったことを、

誰か、ゴーストライターが下書きに書き上げたものを

編集者と著者がやり取りしながら一冊にまとめたのだと思うが、

自分で自分を評価することに過大評価も過小評価もないのは当たり前。

自分の価値判断が基準なのだから、これは論理学的には同義反復である。

本職の作家だったら書かないような文章だ。

また、自己分析が重要なのは別に株式運用の世界のことだけではない。

何をやるのでも、自己分析は重要で必要。

そういう首をかしげるような箇所もあるのだが、

それでも「敵は自分のなかにいる」という言葉は心を打つ。

これも株式の運用だけのことではなく、人生のすべて、

ほとんどのことについて言えることだ。

生きるためにどうするかをめぐって、孤独に一人で、

自分はまず自分と格闘しなければならないからだ。

即自的な(ありのままの自然な)自分と

対自的な(それを否定し反省している、理想を追う)自分との戦いだからだ。

二項対立とその措定(結論)、そして結論はまた次の対立項を生み出す。

一種の精神の永久運動、ヘーゲルの弁証法の世界である。

 

株式相場も同じ。ブルとベア。売り手と買い手。高値と安値。

そういう数字の動きをめぐって、葛藤しなければならない。

 

この本のなかには、もう一箇所、気になるところがあった。

この部分。

 

私は関西に生まれたという理由だけではないでしょうが、まともな話をしません。そういうところを見られているうえに、真面目に相場に当たっている姿を人に見せていませんから、知人から不真面目なやつだと思われても仕方ないのです。しかし、いい加減だろうが、不真面目だろうが、そんなことは相場が強い弱いに全く関係のない話です。もし、人格の話をするのであれば、人格のすぐれた人がこの世界に入ることはないでしょう。

 

人にどう思われようと、そんなことはどうでもいいんだ、と言っている。

自慢しているのか、自分を卑下していっているのか、よくわからないが、

確かにその通りで、面白がってチャランポランをやっているのだろうが、

社会的に尊敬されるまではいかなくても、

書評で「胡散臭い男」などと書かれてはまずいのではないか。

きちんとした男は姿形からきちんとしているものだ。

 

これは本人はそのつもりではないかもしれないが、「人格云々」の箇所は

人格者は株式投資しないという意味で受け取られる可能性がある。

人格者は相場師などにならないとヨタを書いているつもりだろうが、

実際には、人格と株式の運用は関係ないだろう。

どういうのが人格者なのかという話になるが、

周囲から尊敬されている人でも、みんな[投資]はするだろう。

相場は確かにバクチだとは思うが、この人がプロの相場師なのだったら、

プロの相場師は社会からあまり尊敬されない裏稼業の一つになってしまう。

 

本の内容を褒めるつもりで原稿を書き始めたが、

そうでもなくなってしまった。

 

株式投資に熱心な人たちはどうして、自分の本を出したがって、

どうやれば株で儲けられるかということを一生懸命に本に書くのだろうか。

自分の方法を秘密にしておいた方が、もっと株で儲けられると思うのだが、

どんなものだろう。

自分が大儲けしていることを他人に知ってもらいたいのだろうか。

なんか、カッコ悪い。

下はわたしがあらためて株式の運用のために読んだ本。

ピケティの『21世紀の資本』とか、MMTの基礎理論本も読んだ。

これは株式投資のためではなく、経済に関しての教養を高めるため。

私の場合、何をやるのでも、関連の本を片っ端から読むことから始まる。

 

とにかく株の運用は日本社会の未来の経済状況を推理する作業でもある。

株の売買は金儲けでもあるが、謎に満ちていて面白い。

 

この話、今日はここまで。

 

続きをまた書きます。