八代亜紀が死んでしまった。

この写真が彼女が一番きれいに写っていた写真。

いい女だった。

73歳だった。三歳年下、妹と同い年である。

まだ死ぬような年齢ではないではないか。

わたしはこの人の歌が大好きだった。

小泉今日子や中森明菜より、この人が好きだった。

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スポニチの死亡告知の記事を転載する。

 

「舟唄」「雨の慕情」などのヒット曲で知られ、艶っぽくハスキーな歌声で「演歌の女王」と呼ばれた歌手の八代亜紀(やしろ・あき)さんが昨年12月30日、急速進行性間質性肺炎のため死去した。73歳。熊本県八代市出身。葬儀は関係者で行った。後日、お別れの会を開く予定。 

 昨年9月に療養のため年内活動休止を発表していた八代さん。「少しの間、大好きな歌と絵から離れなきゃいけないのは寂しいけれど、必ず元気になって戻ってきますので待っててね。また皆様とお会い出来る日を楽しみに頑張ります!」とファンに向けてメッセージを送っていたが、願いはかなわなかった。
 ハスキーボイスで魅了し、演歌の女王と呼ばれた八代さん。2012年ごろからはジャズやブルースを本格的にコンサートで歌い、13年にはメタルフェスに登場しギタリストのマーティ・フリードマンと共演するなど、ジャンルレスな歌唱活動を掲げ活躍した。
 また、厚化粧のイメージで有名だった時期もあった。ツービートのビートたけしは「厚化粧で、笑うとヒビが入る」などのギャグでイジり、嘉門達夫には「リバーサイドホテル」の替え歌で「誰も知らない素顔の八代亜紀」と歌われるた。本人は「彫りが深いだけ」と語っており、実際は化粧は薄いと一笑にふしていた。しかしその後、化粧品のテレビCMにすっぴんで登場し、テレビ画面から嘉門に対して「ざまあ見ろ!」というセリフを発して話題を呼んだ。
 放送開始から16年間にわたって放送されたTBSの伝説的番組「8時だョ!全員集合」にも数多く出演し、志村けんさんとの夫婦コントなどが人気を博した。厚化粧に関しても、フジテレビ「志村けんのオレがナニしたのヨ?」に出演した際、「リバーサイドホテル」の嘉門のイジり替え歌を歌ったこともあるなどバラエティー番組でも、おっとりとした話し方と、チャレンジ精神で多くの人に愛された。
 その他にも、その確立された愛されキャラクターは漫画の世界にも本人やギャグとして何度も登場。パチンコ台にも採用された。故郷・熊本の社会貢献活動にも積極的に参加。絵を描くことも愛し、画家としても活躍するなど、演歌歌手としてだけでなく、ジャンルレスな活躍を見せた八代さん。「ありがとう」という言葉を常に大切にし、最期までスタッフ、病院関係者に感謝の思いを伝え、昨年12月30日に天に旅立った。
 

「演歌の女王」にまで上り詰めた八代亜紀さん。小さいころから、夢に向けての人生設計を描いていた。  楽ではなかった生活の中で「家計を助けたい」と思い至り、12歳にしてクラブ歌手を目指し始めた。コンプレックスに感じていた生来のハスキーボイスが「歌手」に目覚めた要因。父親が買ってきたジャズボーカリスト、ジュリー・ロンドンのハスキーボイスに衝撃を受けていた。 いきなりの歌手デビューは難しく、中学卒業後に進んだ道がバスガイド。しかし、人前で話すことが恥ずかしかった八代さん。若いゆえに客からひやかされることも多く、何も話せなくなり、観光名所を通り過ぎるなどして運転手に叱られる日々。「毎日、心で泣いていた」という。  

そんな中で出合ったのが、地元・八代市のキャバレー。「思い切って歌ってみたら」。友人の一言がきっかけだった。年齢を偽るなどして歌手のスタートを切った。「八代亜紀」の原点だ。その後、父親の反対を押し切り上京。自身のステージを銀座のクラブに移した。その歌声はすぐに評判となり、魂を揺さぶられた他店のホステスが八代さんのクラブに移ってくるほど。レコード会社のスカウトも顔を出すようになった。 女の哀(かな)しみ、男女の機微…当時18歳の少女は理解しないままマイクを握っていたが、いつしか「哀愁」を意識するようになった。「歌が持つ心を伝える代弁者でありたい」。こうした思いは、銀座時代に培われたものだった。 きらびやかなステージとは対照的に、周囲の八代評は不思議な人、天然。根底にあったのは「人を疑わずに生きるのが当たり前」という考えだった。苦しい生活の中でも多めに肉じゃがを作り、近所にお裾分けする母親の姿が脳裏に焼き付いていた。どんなに成功を収めても純粋な人であり続けた。 

≪王貞治氏とも交友 846号バットプレゼント≫ 八代さんは世界のホームラン王とも親交があった。ソフトバンク球団会長の王貞治氏は、現役時代846本目の本塁打を放ったバットを八代さんに贈った。名字「や(8)し(4)ろ(6)」の語呂合わせで、79年暮れのパーティーで八代さんが王氏に「846号はいつごろになりますか?」と質問。王氏は「来年の5月ごろ」と返答。その言葉通り、王氏は80年5月に846号に達し、記念のバットをプレゼント。八代さんはお礼として、肖像画を贈った。

 ≪八代市市長文化振興に感謝≫ 芸名の由来となった熊本県八代市の中村博生市長は市の公式サイトで「市の文化振興にご尽力いただきました」と感謝をつづった。同市では2004年から「八代亜紀絵画コンクール」を開催。八代さんは同年に市民栄誉賞を受賞し、07年には「八代よかとこ大使」に就任した。また、県のマスコットキャラクター「くまモン」も公式SNSで「いろんなところでご一緒させてもらったモン。思い出だけが行き過ぎる…。ありがとうございました」と追悼した。

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彼女はたくさんいい歌を持っている。

昭和の労働者(プロレタリアート)、水商売の女たちや深夜便のトラックの運転手さんや、

無名のまま、一生懸命に働く人たちのための応援歌をたくさんうたった人だった。

演歌歌手の枠にとらわれず、芸能人として、さまざまの彩りの花を咲かせた。

私が一番好きな歌はこの歌。

本当に、この歌が別れの歌になってしまった。

八代亜紀さんの冥福を祈る。