木滑さんというのはこういう人。
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元マガジンハウス社長。東京府出身。15歳で敗戦に遭遇し、進駐軍を通じアメリカの文化に接して強烈な憧れを抱く。1954年3月、立教大学文学部史学科卒業。学生時代から出入りしていた平凡出版(現在のマガジンハウス)に1955年3月に入社し、1965年から1980年まで『週刊平凡』『平凡パンチ』『an・an』『POPEYE』『BRUTUS』の各編集長を歴任した。1980年12月取締役。1982年6月には『Olive』の編集長を兼任する。1984年10月、取締役編集担当副社長に就任し、1988年には『Hanako』を創刊しブームを作るきっかけを与えた。同年12月に代表取締役社長、1996年12月、代表取締役会長に就任。1998年12月から取締役最高顧問となり、2006年12月に取締役を退任した。93歳没。
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これが木滑さん、凛々しい人で、石川次郎とまた違った意味で女にモテた。
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これがマガジンハウスがお別れの会に合わせて作ったパンフレット。
42ページ余りの小冊子、ペラペラで軽いです。
お別れの会の手土産にはいいかもしれないが、
これで終わりでは、キナさんがあまりにかわいそう。
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そんなことでひと工夫しようと思っている。
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いま、『昭和芸能界史・3』を書きながら、
2台のパソコンを使い分けて、
木滑さんにインタビューしたときにテープ起こしした原稿を
データ入力している。400字原稿用紙で300枚くらいある。
よくこんなにテープ起こしの原稿を書いたものだと、
自分ながら感心している。木滑さんはいろんな人と雑談はしたが、
本格的なインタビューは散発的にしか応じていない。
自分の雑誌や会社のことについてはいろんな取材を受けているが、
その時の取材テーマに対応して話をしていることが多い。
データ入力しながらいろんなことを走馬灯のように思い出している。
わたしと木滑さんはわたしがマガジンハウスの本を書くために、
けっこう本気でいろんな話をしている。それがデータとして残っている。
詳しいことは書き上げる本を読んでほしい。
キナさんの編集理論がよくわかる。
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何回かにわたる長時間インタビューはマガジンハウス8階の応接室でした。
そのほかに木滑さんの自宅のあった目白の駅前の行きつけのレストランや
会社の周辺の飲み屋とか、時々、呼び出されて、喫茶店とかで話をした。
「お前、オレに黙って会社やめるな。我慢して仕事しろ」と何度も言われた、
けっきょくわたしは、その我慢ができず、会社のなかの誰にも相談せず、
早期退職した。しかし、その後もわたしたちの付き合いは途切れなかった。
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作家になって、新しい本を出すたびに贈呈本すると、葉書で感想を書いて
送ってくれた。その葉書はわたしの宝物である。
そして、最後、わたしは自分の仕事場を木滑さんが住んでいた目白に移した。
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記憶していることもあるし、データで残っている会話もあり、
おしゃべりをそのまま本にすることも不可能ではない。
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いろいろなことを思い出しながら、
原稿をデータにしている。
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勢いをつけて、一気に書き上げるつもりでいる。
この話、ここで一区切り。