1973年1月号。初めて『平凡』の表紙に登場した。

月刊『平凡』の表紙撮影は新人タレントたちのあこがれの仕事の一つ。

麻丘めぐみといっしょ。かなりうれしい仕事だったはずである。

この雑誌は1972年11月25日発売。

ということは、10月〜11月はじめが取材の時期。

こういう企画もおこなわれている。

下はハワイでの取材で、メインは橋幸夫とピーター。

ふたりは同じワールドプロで、同じ事務所がらみで

ワールドプロのハワイ巡業に付き合う形だったのではないか。

………

佐賀と下関でおこなわれた秀樹と麻丘めぐみの平凡アワーは、

にしきのあきらのスケジュールが何かの理由でキャンセルになり、

急きょ秀樹と伊丹幸雄の出演が仕込まれた事情のようだ。下関には

『平凡』のいうことならなんでも聞いてくれる藤圭子も駆けつけた。

ここではもう、この号の表紙にも登場する麻丘と秀樹がメインで、

伊丹幸雄は添え物のような形になっている。

この麻丘と秀樹が表紙を務めた1973年1月号は

発行部数133万部、実売部数127万3247部、返本率実に4.15パーセント。

同じ日に、秀樹は第三弾シングル『チャンスは一度』を発売。

この曲のオリコンでの最高位は20位だった。

★★★★★

話を1972年の夏が終わり、秋がやって来たころに戻す。

………

すでに、確固たる地位を確立した、沢田研二、野口ゴローを別格にして、

伊丹、郷、それと西城のあいだで新たに生存競争がはじまった。

 

のだが、

 

この生き残りゲームの首尾を書く前に、

もう一つ、別のアプローチで秀樹の〝生存競争〟について書いておこう。

それは何かというと、RCAビクターの問題である。

RCAの「3樹」というのがある。

 

野村真樹

本郷直樹

西城秀樹

 

「3樹」というのはこの三人である。

レコード会社的に言うと、秀樹は3番目の「樹」なのである。

 

RCAビクターというのは、1968年にビクターと

アメリカのRCAがいっしょになって発足した新しい音楽レーベルだった。

そもそもが一時代前にプレスリーやハリー・ペラフォンテで大当たりした会社、

このころもジョン・デンバーやシルヴィ・バルタン、

ちょっと送れてだが、ディープ・パープル、デヴィッド・ボウイが所属している。

洋楽のメッカともいうべきレーベル、

秀樹はそこの5番目の期待の星だった。

5番目というのはこういうことである。

創業1968年のRCAビクター(洋楽レーベル)の

国産の洋楽レーベルでデビューした歌手の顔ぶれ。

 

     1968年 和田アキ子『笑って許して』でデビュー。

     1969年 内山田洋とクールファイブ『長崎は今日も雨だった』でデビュー。

     1970年 野村真樹『一度だけなら』でデビュー。

     1971年 本郷直樹『燃える恋人』でデビュー。

     1972年 西城秀樹『恋する季節』でデビュー。

 

こういうふうになっていた。錚々たる顔ぶれである。

     68年の新人、和田アキ子はホリプロの期待の新人、

                 

     1950年生まれで18歳。

     デビュー曲の『星空の孤独』(68年10月)は

     大きなヒットにはならなかったが、

     69年4月に出したその次の曲『どしゃぶりの雨の中で』が

     17万枚のスマッシュヒット。70年にNHK紅白歌合戦に出場。

     売れっ子のタレントになっている。

     69年2月デビューの新人グループは内山田洋とクールファイブ。

                  

     ヴォーカルは前川清。デビュー曲『長崎は今日も雨だった』は

     いまも聴かれつづけてシングル盤のその年の年間売上げは不明だが、

     経年累計で150万枚のミリオンセラーとなった。

     この年のレコード大賞新人賞。紅白歌合戦にも出場。

     人気者の前川清が藤圭子と婚約、結婚し話題をさらった。

     70年6月デビューの新人、野村真樹はサン・ミュージック所属、

     1952年生まれ、当時18歳。

                 

                 デビュー曲の『一度だけなら』は時流に受け25万枚を売上げ、

                 野村はいちやく売れっ子に。

     この年のレコード大賞新人賞、歌謡大賞放送音楽新人賞、

     日本有線大賞を受賞し、紅白歌合戦にも出場。

     71年8月デビューの本郷直樹はバーニング・プロの第一号タレント。

     1950年生まれで社会人経験があり、デビューは21歳。

                 

     この人は大人で、うたった歌もちょっと演歌っぼい歌だったと思う。

     身長が178センチあり、俳優としても通用した。

     デビュー曲の『燃える恋人』のヒットの規模は不明だが、

     彼もこの年のレコード大賞の新人賞を受賞している。

これが、RCAのこれまでの戦績。なかなかの好成績だった。

………

わたしの当時の記憶なのだが、RCAの宣伝部に

早野サンという人がいて、この人は本当に熱心な宣伝マンだった。

物量作戦で広告出稿をたくさんしてくるCBSソニーは

ほかのレコード会社にとっては天敵的な存在だったが、

早野サンはわたしが、CBSソニー所属の天地真理や

フォーリーブスや郷ひろみの担当記者だということを

知っていたのだと思う。よけいに、わたし名指しで

「○○ちゃんのキャンペーンを伊豆大島で

やるんですけど、シオザワさん、行きません?」

とかいって、誘ってきた。それで、彼の誘いで

いろんなキャンペーンに付き合った記憶がある。

レコード・レーベル発足以来、デビューの新人が

錚々たる成果を残してきたが、

この人の熱心な売りこみも成功の一因だったと思う。

 

そして、西城秀樹なのである。

名前が「樹」で終わる三人目の新人で、

野村と本郷はレコード大賞の新人賞をもらっている、

このことをRCAは勿論だが、芸映も本人もわかっていたはず。

秀樹を歌手として形にすることは至上命令に近いものがあり、

相当のプレッシャーがあったのではないかと思うのだが、

このときの秀樹はまだ17歳の少年である。

本人はもともとが陽気で楽観的な性格で、

ハードなスケジュールで身体は相当きつかったはずだが、

いつもニコニコ笑っていて、楽しそうだった。

芸能界での生き残りゲームのシビアさが陰にこもって

ストレスになる、というようなことはなかったようだ。

むしろ、その年齢で日劇のステージに立っている自分を

誇らしく思っていたのではないか。

 

なかなか開かない扉を精いっぱいの地道な努力で

勝利の扉を無理矢理こじ開けるようにして、

ここまで勝ち残ってきて伊丹幸雄を圧倒しようとしていた。

 

いずれにせよ、秀樹のタレント環境は、

ちょっとずつ改善されていった。

しかし、この年デビューの新人歌手は、ポップス路線の

男の子アイドル路線の伊丹幸雄、郷ひろみのほかに

 

    森昌子   13歳・ホリプロ所属。『せんせい』でデビュー。

    麻丘めぐみ 17歳・アルト企画所属。『芽ばえ』でデビュー。

    三善英史  18歳・演歌歌手。『雨』でデビュー。

    青い三角定規 グループ・青春歌謡 『太陽がくれた季節』でデビュー。

 

この年は見てわかるように、有力な新人歌手が多出した。

秀樹は有力な新人アイドルと認知されようとしていたが、

戦いの状況はますます厳しくなっていった。

 

つづく。

 

 

 

 

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