マガジンハウスの内奥の秘密の奥義を説明するには、

どうしても木滑さんの話をしておかなければならない。

キナさんの雑誌作りがなぜすごいかという話を

どうしてももう一度、しておかなければならない。

それは二つある。

①人の考えたことを出来るだけ尊重する。

②ものを丁寧に演出して広告を作り出す。

この二つ。

本人は「自分のやりたいことをやるのが雑誌作り」といっているが、

話はそんなに単純ではない。

キナさんが言っている、やりたいことをやるというのは、

別に、キナさんがやりたいことをやるということではない。

なにかをやりたいと思っている人を連れてきて、その人に

ページ作りを託すると言うことなのだ。

じつはこれは、もう『アンアン』(1970年)を創刊する10年前から

はじまっている。

昭和34年に平凡出版初の週刊誌『週刊平凡』が創刊されるのだが、

そのセンターのカラー頁に英語タイトルで「Young Living」という

ページがあった。これを作っていたのが、デザイナ−・堀内誠一、

カメラマン・立木義浩、社員の編集担当者が木滑だった。

週刊平凡時代のキナさんの大特ダネ、ニューヨークの石原裕次郎と長島茂雄

百瀬さんとも仲良しだった。

 

木滑はフリーランスとか社員に関係なく、面白いヤツをたくさん集めた。

そして、ここで新しい洋服や生活のしかたを提案する、メッセージ頁が

作られるようになっていった。最初、堀内誠一が編集の方向性と

デザインを考え、みんなが面白がって、あれもやりたいこれも

という話で、面白いことをたくさん集めて、本に詰めこんでいった。

この編集を管理したのが、キナさんだった。この方法は、じつは

キナさんのオリジナルというわけではなく、創業編集者の清水が

考え出した、現場の若いもんにすきにやらせてみる、という

編集方針で、それまで随分、このやり方で芸能雑誌の『平凡』を

売ってきていた。当然だが、木滑も自分が面白いとおもう企画を

やらせてもらえて、雑誌作りの楽しさを実地で体感してきていた

人間の一人で、その手法を編集部に集まった人間たちに宛がった。

その中から、石川や椎根や淀川美代子や、たぶんわたしもその一人だが、

有能な編集者たちが数学的なマーケット定理とは別の考え方なのだが、

モニター多起用型のマーケティングからはじまった、

「やりたいことをやる」が行われるようになっていった。

そして、それがやがて商品紹介の企画の形をとることがあるようになり、

それが雑誌が作るタイアップの広告ページになり、純粋の広告に

なっていったのである。そして、ここまでは自然な流れなのだが、

その基本の形は、アパレルにこちらの提案する生活に会わせた服を

作らせ、最初、編集頁でそれらの服をファッションとして紹介し、

読者をそれらのファッションの愛好者として、服を買ってもらい、

アパレルはその売上げを、広告出稿で雑誌にもどす。これが、

だいたい料金が決まっていて、見開き2頁で250万円くらいだったのだが、

そういう収益のサイクルを作り出したのである。それがあったから、

「オリーブ」だけのことではなく、マガジンハウスの横文字雑誌は

大量の広告であふれかえっていて、膨大な利益を会社にもたらしていた。

その手法を、言いふらしたりはしないのだが、実践して、マガジンハウスを

巨大な出版社に育て上げた理論的指導者がキナさんだったというわけだ。

キナさんと石川次郎さん、最大の成功が「ポパイ」だった。

アメリカ西海岸の若者たちの生活を日本に持ち込んだ雑誌だった。

ここまで話をすると、「オリーブ」で淀川美代子が提案した

[リセエンヌ]

というフランスの女の子たちの生活を真似した

ファッションの生活提案が、当時の女の子たちに

どれだけまぶしく見えたかが分かってもらえるだろう。

ここで、どうしても当時のマガジンハウスの基本戦略を話さなければ、

話が前に進まないので、ちょっと寄り道してキナさんの話をした。

つづいて次回は「オリーブ」の話にもどることにする。

 

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