昔の思い出話をしていて、人から「それ、けっきょく自慢話じゃないか」といわれることがよくある。

ほかの人の人生と自分の人生を比較する客観的な物差しなど存在しない。

たしかにわたしはほかの人に比べると〝派手な人生〟を送ってきたかも知れない。

わたしにとっての懐かしい思い出が人からは、自分の人生を自慢しているように見えることもあるだろうが、別に盛ってはなしているわけではないし、わたしはそれを、やむをえないことだと思っている。

山内恵介は「冬枯れのヴィオラ」のなかで、♫ 過去など未来の足かせなんだよ ♩ と歌っているが、これは彼がまだ35歳だから説得力があるのであって、70歳をすぎたら、過去の記憶は足かせではなく、生きていく支えなのである。そんな人生をわたしがもし35歳だったら情けないと思っただろうが、いまは昔、なにがあったかを記録に残しておくことが自分=もうじき死んじゃう人間がやらなければいけないことだと思っている。

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わたしは子供のころから孤癖が強く、協調性というものがほとんどなかった。

小学生の時は教室で授業の最中、ひとりで騒いで先生に怒られて殴られた。また、家でいたずらばかりして、父親に殴られた。学校で忘れ物ばかりして、母親に、どうしてこの子はこうなんだろうと嘆かれた。

おふくろと。小学校に入学。昭和29年春。

中学校の時にも、国語の授業時間中、教科書の間に時代小説(「眠狂四郎無頼控」)を隠して読んでいて見つかってたたされ、殴られた。親は学校の成績だけはよく、不思議に勉強だけはできるのに悪行の収まらないひとり息子に心中複雑だったにちがいない。いろいろあったのだが、本人はそれでいて、楽天的な性格で、先生や親からオッチョコチョイとかお調子者といわれてしかられつづけたのだが、いくら怒られてもへっちゃらでいた。そういうことの具体的内容も大人になったころにはきれいに忘れてしまっていた。これをいま風の言葉でいえば、わたしは一種の発達障害(注意欠陥多動性障害?)を抱えた子供だったのかも知れない。

ただ、いろいろあったが、人を憎んだり、怨みを持ったり、嫉んだりということはあまりなかった。うまくいってもいかなくても全部自分のせいだと思ってきたし、なんとなく人生がラッキーに行きつづけて、大学に合格し、出版社の入社試験に合格し、編集者になり、今日、気随に、好きなことを書き散らして暮らしている。

いままで、このブログで自分の自慢話をむきだしで書くのはできるだけさけてきたつもりだが、今日はその自慢話になってしまう、思い出話をあまりくどくどとした説明をせずに書き並べておこう。

イヤなことや悪口をいわれたことなどは忘れてしまっていて思い出せないが、人から褒められた(おだてられた)記憶だけは、自分のなかで大切な宝モノのように保存されている。

その忘れられない褒め言葉の記憶(おだてられてうれしかった思い出)を何の客観性もない、恣意的なベストテン形式で書き並べてみようと思う。

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①石原裕次郎に手紙を書いたら電話が来て、「きちんとした文面だったから、感心した」といわれた。

②倉本聰さんのテレビドラマ(うちのホンカンシリーズ)についてのレポートを書いたら、本人が編集部にやってきて、「いい原稿書いてくれた」といって褒めてくれた。近所のお寿司屋さんでいっしょに食事した。

③樹木希林さんが初めて富士フイルムのCMに登場したとき、「心を写せるフイルムがあったら彼女は一番の美人だ」と書いたら、それを読んで感激した本人から電話が来て、会いたいといわれたが忙しいのでといってことわった。

④西城秀樹とギリシャ旅行した話を原稿に書いたら、それを読んだ秀樹が「ありがとうございました」といって連絡してきて、武道館コンサートに家族で招待してくれた。

⑤人気絶頂だったころの天地真理から「一心同体よ」といわれた。

⑥1972年度のミス・ユニバース(前田晴美さん)から「いままでわたしが出会った男のなかで一番セクシー」といわれた。

⑦松坂慶子が「ステキな原稿書いてくれてありがとうございます」と連絡してきた。

⑧水沢アキがタレントになるとき、「シオ沢さんの沢の字を芸名に使わせてね」といわれた。

⑨沢田研二と結婚する前の田中裕子を助手席に乗せてあげたら、「シオザワさん、車の運転上手ですね」といわれた。

⑩女優の佐藤オリエさんと結婚した早稻田企画のライター加藤賢治(という名前だったと思う。二人はこのあと離婚した)の家に遊びに行ったら、オリエさんが加藤にオレのことを「いままで家に遊びに来たあなたの友だちの中で一番いい男ね」といってわたしの美男子を褒めてくれた。

⑪タレントのマリ・クリスチーヌを取材している最中、マネジャーがいる前で彼女に「シオザワさん、今度わたしとデートしてくれませんか」といわれた。マネジャーがあとで平謝りしていた。

⑫学生時代に初めてライターの仕事をさせてくれたコピーライターの平賀芳子さん(故人)に「シオザワくん、女のコにモテるでしょ」といわれた。「原稿書きも上手だよ」と言ってもらえた。

⑬河出書房新社の社長の小野寺さんから「シオザワさんはすごい」といわれた。どこがすごいのか聞かなかったが、褒め言葉だったのではないかと思う。

⑭ポルノ女優の池玲子が自宅の電話番号をくれて、電話くださいといわれたが、毒饅頭食べろといわれているような気がして電話しなかった。

⑮受賞歴、其の一。小学校二年生の時、描いた絵が長野県の展覧会で入選した。

⑯受賞歴、其の二。高校二年生の時、学校の読書感想文コンクールで入選した。

⑰受賞歴、其の三。ターザン編集部時代、フランス大使館がやっているなんかのアワードで第1位になり表彰されて賞金一〇〇万円をゲットした。編集部のみんなで徹夜のパーティをやって(原宿のディスコを借り切って)一〇〇万円を一晩で使った。

ロクな受賞歴がない。

⑱キナさん(元・マガジンハウス最高顧問の木滑良久さん)と二人で酒を飲んでいて、飲み屋のおかみさんに「お二人は兄弟?」と聞かれた。雰囲気も顔もなんとなく似てるといわれた。

⑲次郎さん(石川次郎)といっしょに挨拶回りをすると、いつもオレが次郎さんに、次郎さんがオレに間違えられた。次郎さんは若く見え、俺は老けて見えたせい。次郎さんよりオレの方がずっと年上に見えた。最後はこのことを、次郎さんがいつも初対面の人に自分たちを紹介するときの場を和ませる笑い話にしていた。

⑳カミさん(茉莉花社発行人・堀内明美)に「あなたくらい頭のいいバカはいない」といわれた。たぶん、これも褒めてくれたんだと思う。

〇番外 橋幸夫に「シオザワさん、ボクより年上でしょ」といわれた。橋は昭和18年生まれ、わたしは22年生まれ。褒めてくれたんじゃないかも知れないけど。

 

整理すると、だいたい、原稿の出来を褒めてくれた(才能を褒めてくれた)のと、女のコや年上の人がいい男だといって褒めてくれた(外見を褒めてくれた)のと、ふたつのパターンがあるようだ。

原稿の出来にはある程度自信があるのだが、こんなこと人にいったこともないが、いつも自分の文章書きの才能が枯渇してしまわないか、消尽してしまわないかどうか、不安に思いながら生きてきた。これはいまでもそう。文章が書けなくなる恐怖感がある。

また、わたしは自分のことをいい男だなんて思ってこなかった。自分の顔をダサい顔してるなと思ってきたが、考えて見ると、片思いの恋愛というのをしたことがない。99人くらい女のコを振ってきたかも知れない。いろいろ考えると、胸が苦しくなる。

 

今日はわざと自慢話を書いた。ちょっとイヤミだったかも。

Fin.