しばらくぶりに西城秀樹さんのことを書く。

 

どうも見ていて感じるのだが、チチ、チン、チン〇コ図書館じゃなかった《沈黙図書館》には毎日たくさんの秀樹のファンだった人たちがフォロワーとして訪れてくれているようだ。それで、そういう人たちに読んでもらおうと思って、これを書いている。

青字部分の原稿は、オレが芸能記者として『週刊平凡』という芸能週刊誌で仕事をしていた末期に書いた原稿。前に「渡辺プロダクションと沢田研二」という原稿を書いたのを紹介したが、それと同じシリーズで、いまからもう35年前の原稿。

秀樹や当時の関係者に取材して自分で書いた原稿だが、なにも根拠のない噂話や人が書いたことを引用するよりは、自分がむかし書いたものを読んでもらう方がいい。

オレは昔、いまよりちゃんとした原稿を書いていたかも知れない。

西城秀樹は当時、芸映プロダクションという芸能事務所に所属していた。

その話である。

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《THE PRODACTION》 芸映プロダクション

秀樹・宏美・加世子ら売れっ子ぞろい。やり手マネジャーがそろったモーレツ集団

 

毎晩、12時すぎまで電気がついているプロダクションといったら芸映くらいしかないだろう。とにかく、よく働く。芸能界随一のモーレツ集団だ。

芸映の手がけるタレントは、デビューの成功率も、そのあと活躍する確率もかなり高い。それはなぜだろうか。

 

●歴史  事務所じゅう、ゴキブリだらけ。

岩崎宏美が初めて芸映に仕事に行ったのは、昭和50年の1月。年賀状の整理の手伝いである。年賀状は信じられないくらいの量で、1万通以上あった。

年賀状の量も強烈な印象に残ったが、なんといっても驚いたのは、事務所のいたるところに神出鬼没、姿を現しては消えるゴキブリたちの数の多さであった。

「赤坂のゴキブリってね、大きいんですよ。茶色くて迫力があるの」(岩崎宏美)

そして、もうひとつの驚きは、事務所のマネジャーたちの声の大きさだった。

「電話かけながら、口ゲンカしてるでしょ、大声で。それで引き出しなんかあけると、ゴキブリが2〜3匹飛び出してきて、〝しっ、あっち行け!〟なんてどなってるのね。そのとき、まあなんて品の悪い事務所だろうって思ったのね」(岩崎宏美)

さて、年賀状の整理だが、宛名別に分類していくなかに、木元龍雄という人宛のはがきがとても多い。

 ★木元については原文のまま。

「この人いったいだれだろうって思って、そばにいる人に聞いてみたの。そしたら西城秀樹さんの本名だった」(岩崎宏美)

彼女は、この年の春、『二重奏』(デュエット)を歌って芸映からデビューする。

芸映。芸能界ではやり手ぞろいのマネジャーたちの集団としてよく知られている。

芸映の歴史は古い。前身の『伴淳三郎東京事務所』を兼ねた『東京芸映プロダクション』の設立は昭和32年。渡辺プロが発足したのと同じ年である。

株式会社『芸映』になったのが昭和34年。ただし、このころはタレントのプロデュースをする会社ではなく、映画製作プロダクションだった。初代の社長は、NHK『とんち教室』のメンバーのひとり、医師であり、画家でもあった宮田重男。2代目が伴淳三郎。3代目の現在が、伴淳のマネジャーだった青木伸樹である。

 

《人がいて、それから組織作り》

映画製作だけでは商売にならず、タレントのマネジメントに乗り出したのが昭和38年。つくば兄弟という男の演歌歌手を売り出したが、これはうまくいかず、つづいて4分の1外人の血が混じった女の子を連れてきて、髪を金色に染め、エミー・ジャクソンと芸名をつけ、デビューさせる。このエミー・ジャクソンが『涙の太陽』でそこそこの売れっ子になって、芸映の今日につながるきっかけを作るのである。

そして、いしだあゆみ。『ブルーライト・ヨコハマ』を120万枚売って、それまでさみしかったフトコロをあたたかくしてくれる。このころまでの芸映はあたりはずれの多い、不安定なプロダクションだったのである。

そして、現在の芸映だが、「組織を作ってそこに人をはめ込むんじゃなくて、能力があって根性がある人がいて、それから組織を作りました」(鈴木力専務)という。

芸映には強烈な個性をもったチーフプロデューサーが2人いる。秦野喜男と香川洋三郎である。2人とも35歳と、古い歴史を持つプロダクションのチーフプロデューサーとしては、ひじょうに若い。

「ときどき肝心なところをコントロールすることはありますが、ふだんはもう、まかせっきりでやらせてます」(鈴木専務)

ふつうのプロダクションでは、制作の実験は制作部長が握っている。ところが芸映では、現場のチーフプロデューサーが裁量をまかされている。

●西城秀樹  膝にたまる水を注射で抜きながら

秦野喜男がはじめて西城秀樹に会ったのは昭和47年冬、すでにデビュー曲も『恋する季節』と決まったころだったという。

「黒いスリーピースに、白いワイシャツの襟を出して、不良っぽく見えた。このヤロウ、生意気そうなヤツだと思った」(秦野喜雄)

まさかその1ヵ月後に自分が担当することになるとは思わない。

「レッスン室にひとりで閉じこもったきり出てこない。なにしてるんだろうと思ってのぞいてみたら、壁の鏡に向かってひとりで一生懸命にレッスンしていた。あっ、こいつ根性あるなと感心しました」(秦野喜雄)

デビューは3月25日だった。西城のデビューは野口五郎や郷ひろみに比べると必ずしも順調ではなかった。歌手として荒削りで、未完成だったこともあるだろう。競争相手も多かった。

「地方のラジオ局のスケジュールがとれると、それを大切にして仕事してきたんです」(秦野喜雄)

芸能界で生き残っていくために秦野がまず西城秀樹に教えたのは、夢を追いかけるということだった。

「秀樹、この歌、ベスト10の1位にしたいな」

「秀樹、野球場みたいなところでコンサートやりたいな」

西城は秦野の語る夢に目を輝かせ、うなずく。およそ1年半かかって、彼は自分の歌をベスト10に入れることに成功した。

「ステージからセリに落ちたことがあった。たいへんだ、と思っていると、血だらけになってセリからはい上がってきてまたうたい始めた。そのとき、こいつは必ずビッグになるなと思った」(秦野喜雄)

そのころの西城秀樹のうたいながらの激しいアクションは売り物のひとつだった。しかし、跳んだりはねたりは当然、足の関節に負担をかける。西城は、数少ないスターの椅子に座るために、膝にたまる水を注射で抜きながら秦野のあとをついていったのである。

 

《秀樹は商品じゃない、人間だ》

デビューして4年目。それまで好調に50万枚近くのレコードを売っていたのが、ひどい落ち込みを見せ始める。15万枚くらいまで下がったという。

昭和51年から52年にかけてという時代状況を考えると、それまでの固定のファン層がニューミュージックに心移りしそうになったのだろう。暗中模索のなかで、ちょうどレコーディングの日に事務所を訪れた秀樹が秦野に、

「秦野さん、ぼく、まだいろんなことが足りないね。いままで追われるように仕事してきたけれど、これからはひとつひとつの仕事をたいせつにしていかなくっちゃね。ぼく、これから初心に戻ってレコーディングに行ってきます」

といい残して出かけた。このとき吹き込んだのが『君よ抱かれて熱くなれ』で、これがしばらくぶりの大ヒットになった。

「これだけはいえる。ぼくは秀樹をけっして商品としては扱わなかった。いままでどんな小さな仕事でも秀樹にこまかく説明し、意見をいわせ、それから決めてきました」(秦野喜雄)

西城秀樹のコンサートに集まってくる客たちは、貯金箱から10円玉や5円玉を集めて切符を買いに来る人たちだ。そのことを秦野は、まだ少年だった西城秀樹に何度も言い聞かせたという。

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この記事は全部で6ページあり、かなりの長さ。一度で全部を紹介できないので、二度に分けて載せる。原稿はこのあと、岸本加世子や浅田美代子、角川博を手がけたもうひとりのプロデューサー、香川洋三郎のタレント作りの話が出てきて、話の最後にまた、西城秀樹が自分の思いを語っている。

オレがこの原稿を書いた1982年(10月7日号に掲載とある)はオレも芸能記者としては最後の一年、秀樹もこの後、所属のプロダクションから「お前もそろそろ一国一城の主になれ」といわれて、芸映から独立するのである。秦野は岩崎宏美、そのあと、とんねるずを手がけて、これも大ブームを起こしている。ネットのなかで秦野さんの消息を調べると、スポーツ新聞だが、こんな記事が乗っていた。一部だか、抜粋しよう。

 

あまり大きく報道されることはなかったが、10日に肝不全のため69歳で亡くなった芸能事務所「AtoZ」代表取締役社長の秦野嘉王(はたの・よしお)さんの通夜と告別式には、多くの芸能界の重鎮が参列した。西城秀樹(60)や岩崎宏美(56)をプロデュースするなど、70年代以降の音楽界の中心人物で、何より「とんねるず」を生み出した人物。(略)

元々はミュージシャン。その経験を生かして、芸能事務所「芸映」に入社した。その所属アーティストだった西城をデビューからプロデュース。当時としては珍しかったコンサートでのダイナミックな演出など、すべて秦野さんが考え出したという。

一方で、元ミュージシャンということもあってか、関係者によると「感覚的で強引な部分も多分にあった」という。自分が気に入らないと楽曲の書き直しや、歌い直しなどは突然言い出す。そのため西城とつかみ合いのケンカをすることもあった。当時を知る人は「だけど、男同士で感情をぶつけ合った後は、また同じ方向へ進んでいくいいチームでした」と語る。(『スポーツニッポン』2015年8月29日号)

 

秦野さんはすでに三年ほど前に亡くなられていた。

ふたりは天国で、無事に出会えただろうか。

 

今日はここまで。また、明日につづく。