彼女の名前をリアルなオンタイムで知っているのであれば、

オレと同じ団塊の世代の所属だと思う。

内藤洋子さんは、『白馬のルンナ』という大ヒット曲を持つ歌手でもあった、

昭和40年代の前半、期間限定で大活躍した〝幻のアイドル女優〟である。

 

いきなりみんなをガッカリさせて悪いが、オレはこの人に一度も会ったことがない。会ったことはないのだが、例えれば、顔を合わせないまま隣の部屋で寝泊まりしていたような、入り組んだ関係の人である。

内藤さんは昭和25年生まれで、デビューしたのは昭和40年に封切られた黒澤映画『赤ひげ』のまさえ役。映画封切り時、まだ15歳だったのではないかと思う。加山雄三扮する青年医保本登と婚約する若い娘の役に抜擢されてデビューした。

ウィキペディアには、その経緯がこういうふうに書かれている。

 

4人姉妹の3番目として誕生。父は勤務医だった。内藤家は藤原氏の庶流で、現在の静岡県浜松市の在で代々地主を務め、洋子の曽祖父の代からは医業を生業とした。

小学校5年生の時に学校にエースコックのワンタンメンのCM撮影隊が訪れ、それがきっかけで雑誌『りぼん』のモデルを始めるようになり、高校在学中の1965年、黒澤明監督の『赤ひげ』でデビュー。

 

これは実はものすごく簡単な説明なのだが、オレと彼女の複雑な関係というのは、こういうことである。まず、オレの高校時代の3年生のときのクラス担任の先生は、村尾香苗という、当時、[野火]という俳句同人があったのだが、そこに所属する著名な俳人だった。この人が、実は内藤洋子さんの伯父さんだったのである。村尾先生がオレのクラス担任になったのは昭和40年のちょうど、映画の『赤ひげ』が封切られたときで、先生の家は小田急線の喜多見駅のそばにあった。東宝撮影所がある成城学園駅の隣の駅である。内藤さんの実家というのは北鎌倉にあり、彼女も鎌倉育ちの女のコで、撮影所で仕事があると、先生の家に泊めたもらっていたらしい。先生の話のなかにはやたらと「昨日、洋子が家に泊まった」とか「洋子はかなり忙しいみたいだ。可愛い子だよ」とか、内藤さんの話が出てきた。『赤ひげ』での彼女の演技は評判よくて、すぐにテレビドラマの「氷点」に出たり、「あこがれ」という青春映画に主演して、賞をもらったりして、たちまち人気者になっていった。

 

オレは実は国語の成績がかなりよくて、村尾先生からは「そのうち洋子に会わせてあげる」といわれて可愛がられていたのだが、けっきょく、一度も会えずじまいで、高校を卒業したのである。それが、大学に入ってしばらくしてから、先生から電話があり、親戚の娘の家庭教師をやってくれないかと頼まれた。それが、内藤洋子さんのひとつ年下の吉村道子さんだった。内藤さんの従姉妹である。お父さんは早稻田の理工学部の教授で新幹線のレールを設計した人だった(というふうに聞いている)。

吉村道子チャンも内藤洋子さんそっくりの女のコだった。残念ながら写真はない

 

それで問題はここからなのだが、吉村道子さんというのは、父親が理工学部の先生だけあって、数学と理科の成績はすごくいいのだが、国語と社会科がイマイチという、学校の成績がオレと正反対の女のコだった。それで、誰か国語と社会科が得意な人はいないかという話になって、村尾先生が、それだったらこういうのがいると、オレを推薦してくれたのだった。それで、吉村家を訪ねて本人に会ってみたら、丸顔で、内藤洋子さんとそっくりの女のコだったのである。まだ中学生だからセクシーとか色気があるというような話ではなかったが、美少女であることに違いはなかった。オレは彼女の家庭教師をやることになった。彼女に週二回二時間(だったと思う)勉強を教えて、たしか月謝を一万五千円もらった。当時の一流企業の新入社員の月給が三万円くらいだから、悪くない給料だったと思う。

オレにとっては、これが初めてのバイトらしいバイトだった。

正確な時間の関係を思い出せないのだが、そんなふうにして村尾・吉村家に出入りするようになって、あるとき、村尾家の長く患っていたひいおじいちゃんが死んで、その葬式に呼ばれたのである。ここで、先生や吉村のおばさんにいろいろ話を聞かされた。

この[村尾=内藤=吉村]家はけっこう華麗なる一族で、そもそものご先祖様は江戸時代後期の儒学者・村尾元融とする家系だった。村尾元融の父親は遠州浜松の村尾薫覚という医者だった。このときに亡くなった村尾家のヒイオジイちゃんというのはおそらく、元融の孫だったのではないかと思う。元融が死んだのが1870年(明治3年)のことである。それで、村尾先生の弟さんが歴史学者の村尾次郎だった。村尾次郎は戦前の皇国史観の中心人物だった平泉澄の門下生で、このころは文部省の教科書審議官で、この人は家永三郎の教科書裁判で、文部省を代表して被告として受けて立った人物だった。歴史学の世界では右翼の論客として有名な学者だった。この吉村家の葬式でオレは村尾次郎と出会った。このときは、村尾次郎がどういう人か、平泉澄のことも皇国史観のこともなにも知らなかったからフーンそういう人なんだと思ったくらいのことだった。

家庭麻雀やってます

オレが参列したのは通夜の席だったのだが、残念ながら内藤洋子さんの姿はなかった。それよりも、この葬儀の時のことではっきり覚えているのは、村尾次郎さんの奥さんの逸子さんのことで、このひとはもうおそらく40代の成熟した大人の女だったと思うが、こんなにきれいな人は見たことがないというほどの美人だった。羽二重の喪服を着ていたから、余計に清楚というか、余分なものをそぎ落としたように見えた、美しい人だった。彼女に会ったことをオレはこの日のノートにこんなふうに書いている。

 

その人は黒い喪服の弔問客たちに混じって、優雅に舞う黒い揚羽蝶のように見えた。その人の華麗で妖艶な立ち居振る舞いにはオレのまわりにいる若い女たちにない、荘厳な美しさがあった。

 

要するに、大人のいい女にあってショックを受けているのである。いま考えてみればいい女に会ってショックを受けるのは、オレにとってはいつものことなのだが、いい女と出会った記憶を辿って蛇足的なことを書くと、十代のころに好きだった○村○子や、いまうな丼研究所の副所長をやっている〇□□、そのあとのいま、オレの女房になっている堀内明美と初めて出会ったときのことも忘れられないといえば忘れられないのだが、新宿の喫茶店『しみず』(調布の大映撮影所?)で紹介された松坂慶子や、八十年代になってからのことだが、表参道の『ブラッセリーD』で、真夜中にひとりでワインを飲みながら食事をしていたデザイナーの稲葉賀恵もいい女だった。

蛇足の蛇足になるが、若いころの淀川美代子も昔の平凡出版のなかでは特筆するべき美人だった。編集者としての腕を上げたあとは、きつい性格の女になったが、娘のころは優しくてよかった。

話を元に戻すと、オレが家庭教師を務めた吉村道子チャンは無事、有名都立高校に進学して、オレの家庭教師は無事に終わる。このバイトのあと、紆余曲折があり、学生運動の時代が始まるのである。一方の内藤洋子さんは酒井和歌子さんとふたりで東宝ブランドを背負って、東宝青春映画の看板女優になっていき、昭和40年〜45年にかけて大活躍したあと、加山雄三のランチャーズでギターを弾いていた喜多嶋修と結婚して、さっさと女優を引退して主婦になり、アメリカに移住してしまった。

オレが大学で学生運動の時代をくぐり抜けて、芸能界で仕事をし始めたのは昭和45年の春からのことなのだが、オレが東宝撮影所にたどり着いたときに待っていてくれたのは中野良子さんや竹下景子さんで、全盛時に〝永遠の美少女〟といわれた内藤洋子さんの姿は東宝にはなかった。話がダラダラと長くなってしまったが、これがオレが結局、内藤さんに会えなかった顛末である。でも、会っていてもオレの運命も彼女の運命も変わらなかったと思うけどね。

 

話がハンパになっちゃったけど、今日はここまで。 Fin.