テレサ・テンの話をしよう。この人もステキな女のコだった。

テレサがポリドール(レコード会社名)から日本デビューするのは1974年の3月のことである。このときの彼女は既に台湾だけでなく、シンガポールやマレーシア、タイ、香港などでも人気者になっていて、中国本土でも人気があり、アジアのトップスターといってよかった。

彼女が日本デビューで最初に歌ったのは「今夜かしら明日かしら」という、アイドル路線の、簡単にいうと、「どう? あたし、可愛いでしょ」というようなキャラクターソングだった。この曲は鳴り物入りで、デビューキャンペーンをやったが、結局うまくいかなかった。それで、もともと歌の実力はあるのだから、音楽的に無理のない、いい歌を歌わせようと考え、2曲目に「空港」という歌を持ってくる。

「空港」のころのテレサ

「空港」はこういう内容の歌だ。

 

   何も知らずに あなたは言ったわ たまには一人の 旅もいいよと

   雨の空港 デッキにたたずみ 手を振るあなた 見えなくなるわ

   どうぞ帰って あの人のもとへ 私は一人 去ってゆく

     いつも静かに あなたの帰りを待ってるやさしい 人がいるのよ

   雨にけむった ジェットの窓から涙をこらえ さよなら言うの

   どうぞもどって あの人のもとへ私は遠い 街へゆく

   愛は誰にも 負けないけれど別れることが 二人のためよ

   どうぞ帰って あの人のもとへ 私は一人 去ってゆく

 

これはたぶん、不倫を歌った悲しい愛の別れの歌なのだが、この歌が大ヒットすることで、テレサは日本での歌手活動を軌道に乗せるのである。たぶん、悲しい恋の歌を歌い始めることで、現実の生活のなかでも、恋愛に対してのただ甘いだけの幻想を持つ、ということができなくなっていったのではないか。彼女に、アグネスチャンにとっての日本人の恋人(金子力さん。現場付きのマネジャーでのちに結婚した)のような人間がいたかどうかわからないが、日本をよりどころにしなくても十分に活躍の場がある分だけ、日本では孤独だったのではないかと思う。

オレがテレサと二人で、神戸から船に乗って別府まで船旅をして、そのあと。別府から阿蘇を通って福岡だったと思うが二人で旅行したのは、彼女が日本デビューして、デビュー曲があまりうまくいかず、2曲目の「空港」を用意している最中だったと思う。オレの月刊『平凡』編集部在籍中の最後のころである。これも、このころの取材手帳などは全部廃棄してしまっているので、正確なところがわからない。

テレサの所属事務所はどこだったか忘れたが、委託だと思うが、広報とか取材の窓口は渡辺プロになっていて、渡辺プロの宣伝部の人から、いくらでも取材の時間を使っていいからなんか取材してくれないかと頼まれた。担当していたのはよく思い出してみると、いまバーニングプロで周防サンの片腕役をやっている河西さんだったのではないかと思うが、はっきりしない。とりあえず、どうしようかと思って彼女のスケジュール表を見せてもらうと、ポツリと神戸と、一日おいて九州の博多の(だったと思う)スケジュールが入っていて、その前後に全然仕事が入っていない。それで、いろいろと考えて、挑戦企画で「テレサ・テンがトラック野郎に挑戦!」という読みものを4ページぐらいで作らせてくれないかと頼んだ。当時、菅原文太主演の長距離トラックの運転手の映画が大ヒットして、トラックの運転手が花形職業扱いされていたのである。この話の取材にOKが出た。

渡辺プロも彼女をどうマネージメントすればいいか、困っていたのかも知れない。

それで運送会社のルートをたどって、いろいろ人に聞いて、別府から阿蘇を抜けて福岡に異動する大型トラックの所在を調べた。そうしたら、福岡に行くという一台が別府に朝早くに来てくれれば乗せていってあげるといってくれたのである。それで、事前に東京で挨拶したあと、当日の夕方、大阪(だったと思う)でテレサと合流し、関西汽船で夜、神戸を出て明くる朝、別府に着くフェリーで船の旅をした。

テレサは長い船旅が珍しく、楽しそうにしていたと思う。オレたちがなにを話したか覚えていないが、日本語の教則本のようなテキストを持ち歩いて、カタコトの日本語をしゃべった。日本はステキな国だというようなことを言っていた記憶がある。

テレサはこのとき一人で、マネジャーも連れていなかった。トラックには、運転手を除いてあと三人しか乗れないということで、わたしたち二人にカメラマンを連れて歩かなければならず、マネジャーは別仕立てで鉄路か飛行機で博多に向かったのだと思う。これはそれだけわたしがナベプロに信用されていた、ということかも知れない。

彼女はこのとき、21歳で、後年のあか抜けた、黒いドレスの歌衣装の似合うようなレディではなく、もちろん長距離トラックに乗っていくのだから、ズボンとスニーカーという格好だったのだが、悪いけど、なんとなく泥臭い感じがした。なんだかおしりの大きな女の子だなと思ったことも覚えている。当時の当該資料を調べれば、取材の様子はわかるのだが、いま、手元にない。阿蘇山のそばを走ったような気がする。そのころのテレサは「愛人」を歌っていたころの妖艶な雰囲気ではなかったが、それでも可愛い丸い顔で立ち居振る舞いに愛嬌があり、どっちにしてもチャーミングな女のコだった。

そして、この取材のあと、わたしはテレサに会っていないのだ。

ポリドール時代のテレサは「空港」、「夜のフェリーボート」などをヒットさせるのだが、そのころの取材の機会はなかった。みんな知っていることかも知れないが、彼女は昭和54年にインドネシアのパスポートで入国しようとして見つけられ、国外退去処分になる。オレが芸能記者をやっていたのは、昭和57年までで、彼女が再入国を許されて「つぐない」で劇的なカムバックを遂げる昭和60年にはオレは石川次郎さんたちと新雑誌創刊の準備にはいっている。

大人になって黒いドレスの似合ういい女になった

オレが21歳のテレサと神戸から福岡までいっしょに旅行したことをなかなか忘れられないでいるのは、たぶん、この日本で劇的に再デビューして一連の悲しい恋の歌を次々とヒットさせ、その歌の描く恋愛の悲しみの世界に、日本の男たち(女も)共感し、その歌が長く愛唱されているなかで、彼女が突然死んでしまったからだろう。

 

これはもちろん、悲劇的な人生だが、

アグネスのように日本を本拠地にして、日本でずっと歌手活動をして、

誰か日本人のいい男でも見つけて,

その人と暮らしていればまたちがう人生があったのではないか。

男運が悪かったのではないか。

アジアの歌姫であったことが、逆にテレサからアジアを捨てさせなかった。

そして、アジアの現実と歌の世界とに引き裂かれてしまった。

テレサの人生はそういう悲劇だったと思う。

 

この話はここまで。  Fin.