昭和48年。いまから45年前だが、天地真理さんは本当に絶対的な人気を誇る国民的アイドルだった。

それが、打ち上げ花火が消えるように、ものすごい勢いで[人気]がなくなっていった。オレは当時、『平凡』というティーンエイジャーむけの芸能雑誌を作っていて、その現象を本人、渡辺プロの彼女のスタッフといっしょにいて、目撃、経験したのだが、その原因がずっとよく分からなかった。一般的には、新しく出てきた女の子たち、山口百恵さんとか桜田淳子さん、浅田美代子さんなど、後出の女のコたちにファンが移動したというふうにいわれているのだが、ずっと本当にそれだけのことなのだろうかと思ってきた。

手元にこういう資料がある。『平凡』が行った人気投票のランキングである。人気投票は、往年は毎年行われていたのだが、突然、間歇的に昭和48年と49年の二回だけ行われた。二回だけに終わったのは49年の投票数が48年の半分しかなかったからだろう。その内容はこういうモノだ。

 

 [女性タレント部門]

 [48年]     

 ①天地真理     86974票

 ②アグネス・チャン 30353票

 ③浅田美代子    29239票

 ④麻丘めぐみ    17436票

 ⑤南 沙織     15944票

 ⑥小柳ルミ子    11471票

 ⑦森 昌子      9855票

 ⑧桜田淳子      9144票

 ⑨岡崎友紀      5679票

 ⑩山口百恵      5274票

 

 [49年]

 ①山口百恵     33451票(△28177)

 ②アグネス・チャン  28680票(▼1673)

 ③桜田淳子     14299票(△5155)

 ④浅田美代子    14198票(▼15041)

 ⑤南沙織      10155票(▼5789)

 ⑥天地真理     8193票 (▼78781)

 ⑦麻丘めぐみ    7749票 (▼9687)

 ⑧森昌子      3605票 (▼6250)

 ⑨風吹ジュン        4320票 (新入)

 ⑩小柳ルミ子    3605票 (▼7866)

 

この投票結果はいろいろな意味で衝撃的だった。昭和48年の天地真理さんはほかの人を寄せ付けず、圧倒的な強さだった。それが翌年、激減している。

ふたつの投票結果だが、じつは投票総数自体が、大幅に変化している。掲載頁に投票総数の記載がないので、ベストテンのメンバーの集票数で比べるのだが、昭和48年の投票数が22万1300票、それに対して昭和49年の投票数は11万5200票とその約半分にすぎない。

このことをどう考えればいいのだろうか。表の通り、百恵、淳子、新登場の風吹ジュン以外の人は軒並み、得票数を激減させている。票数的に一番ひどく減っているのは天地真理なのだが、浅田、麻丘、南沙織、小柳、森昌子らも少ない票数のなかから相当の数の票を持っていかれている。

アグネスは微減、全体が減少衰弱するなかで、ひとりだけ持ちこたえている。

もちろんこれは、世代交代的な意味合いもあったと思う。アグネスのアイドルとしての立ち位置はほかの人とちょっと違っていて外国の女のコだった。そして、年齢のことを書くと、天地、小柳、南、岡崎友紀、番外だが吉沢京子らは昭和20年代後半、浅田、麻丘、アグネスは昭和30年近辺の生まれ。それに対して、百恵、淳子は昭和33、4年生まれ。いずれにしても、雑誌の読者の読者は中学生、高校生が中心だったから、読者とかけ離れて年齢が上ということが、誰を選んで投票するかに影響したかも知れない。昭和26年生まれの天地真理などは、昭和49年には23歳になっていて、完全にお姉さんタレントである。いま思えば、その割に彼女は大人の愛の歌を歌わなかった。

森昌子さんは百恵ちゃん、淳子ちゃんと同年齢だが、デビューが一年早いのと、ルックスよりも歌唱力が評判になって歌をヒットさせた、いわゆる実力派の女の子だった。彼女も得票数は減っているが、ほかの人に較べると、ダメージは少ない。

あらためてその一年間の間のドラスチックな変動を調べてみる。メンバーチェンジした岡崎友紀さんと風吹ジュンさんの得票を排除して考えると、全体の総数は実数で48年21万5600票、昭和49年が11万900票あまり、10万4720票の差、48・5パーセント減。内部の増減は票数を増やした百恵、淳子の増票数が3万3322票、残りの人たちの減票数が12万5087票。天地ひとりの減数が7万8780票あまりあり、総減数から天地さんの減数分を引くと、4万6306票となる。

天地真理と山口百恵の主役交代劇についてだが、ちょっと思うところを書きとめておくと、世代交代論もふくめてなのだが、オレは最初、天地真理が山口百恵にやっつけられたというふうに考えていた。 

以下、どうしてこういうことが起こったのか、百恵が飛躍的に首位に躍り出た原因の分析である。山口百恵さんは昭和48年の5月にホリプロからデビューするのだが、オレは和田アキ子さんの話のところでちょっと書いたとおり、ホリプロは出入り禁止の鬼門で、ホリプロのマネジャーたちからは仕事はできるが危険人物、と思われていて、森昌子(47年7月)や石川さゆり(48年3月)のデビューにも縁がなかった。

自分がデビューしたころの百恵ちゃんの取材をやったかやらなかったか、はっきりした記憶がないのだが、郷ひろみとの対談企画とか、集合もの企画のコメントをもらったりとか、そういう取材でデビューしたばかりの百恵の取材をやっているのではないかと思う。なにか、二、三回おしゃべりした記憶はある。

彼女のデビュー曲の『としごろ』はブラトニックク・ラブへの憧れを歌にしたような、そのころの天地真理が歌っていたのと同じような内容の、あまり刺激のない歌で、たいしたヒットにはならず、百恵自身、このあとなにもなければ、ホリプロでいうと、デビューがあまりうまくいかなかった比企理恵とか甲斐智枝美のような、その他大勢タレントとして扱われるようになっても(片平なぎさもアイドル歌手としては失敗作だった)仕方のないような、デビュー曲ではそういう勢いしかあたえられなかった。じっさいにそのころの百恵はなんだかちょっとおどおどしているような感じがついて回っていた、この子、怖がってるのかな、というような感じがあった。

それが、第二作の『青い果実』、そのあとの『ひと夏の経験』で、要するにこれらの歌の内容は処女喪失を歌ったものだった。まだ十四歳で「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」とか「あなたにだったらなにをされてもいいわ」とうたうのだから、中三トリオで当面のライバルとなった森昌子や桜田淳子はいうに及ばず、『水色の恋』とか『ちいさな恋』などで肉体関係をシャットアウトした歌で人気者になっていた、トップアイドルだった天地真理が敵うわけがなかった。

例えば、そのころに撮影された水着写真を比較しても、身体の露出の持っている強さが、天地真理と桜田淳子とでは全然違っている。左が渡辺プロの宣伝担当者が選んで着せた水着である。こんな不自然な水着を見せられたら、ファンは淳子チャンの方に移動していってしまうだろう。

これが、百恵の場合は篠山紀信が撮影した写真があるのだが、淳子チャンの写真よりもっと強烈なインパクトがあった。しかし、それにしても天地の得票数の変化は約9万票が9000票である。この票数の激減は百恵の歌がどうこうというような話ではない気もする。ごっそり消えた印象である。つまり、これはどういう意味かというと、全体が客離れしているなか、百恵は首位に立ったが、ごっそり消えた天地の減数分を除いた4万6000票あまりの票のうちの3万3000票しか集められず(前年の5274票を除くと増加分は2万8177ということになる)、桜田淳子さんの増加分を足すと、4万7800票と、減数の差額分4万6000票とほぼ同数になる。これはしかし、前年、天地さんが第二位のアグネスに5万6千票あまり差を付けてダントツトップだったのとは大いに様子が違っていた。その天地さんは一年後、もう1万票もとれなくなっていてベストテンの第六位に後退している。ランクの上位は完全に年齢の若い女の子たちのドングリの背比べ状態になり、天地が持っていた大量のファン8万人あまりがごっそりどこかに消えてしまったという書き方でいいのではないかと思う。

しかし、それではその9万票はどこに消えてしまったのか。

ここからはわたしの推理だが、天地真理の凋落は雑誌平凡的な狭いアイドルの世界のなかのことだけでなく、芸能=音楽産業全体の動向、話を広げれば大衆文化全体の変化と関係があると思う。なにかがあって、芸能界の構造、仕組みとその内容物の質が変化し始めたのだ。

それで、この昭和48年から49年にかけて、社会でどんなことが起こり、音楽産業や芸能界はそのことでどんな影響を受けたのか、なにが起こっていたかを調べると、心当たりになることがいくつかあるのである。

48年の人気投票というのは、実は9月号(7月25日発売号)で告知して、ハガキの募集を行い、11月号(9月25日発売号)で、投票結果を発表している。そして、この号が発売されている最中に石油ショックが日本を襲うのである。こういう衝撃は戦後、初めてでトイレットペーパーを手に入れるために行列するというようなパニック状態も引き起こされるのだが、『平凡』もこのとき、紙が入手できないということで、用紙の供給が10%カットされたという話を聞いている。

それで、昭和49(1974)年がやってくるのだが、戦後昭和のそこまでの43年間、国民総生産の統計数字自体が昭和27年からしかないのだが、記録にある限りで、経済成長率がマイナスになっているのは、この昭和49年だけなのである。昭和49年についで、成長率がマイナスになるのは平成5(1993)年のことである。

天地真理さんはタレントとして底抜けに屈託のない、明るい夢のある、さわやかな女の子として売ろうとして、人気が爆発した。昭和47年から48年にかけて、政治的には自民党田中角栄内閣のもとで、「日本列島改造論」などが持てはやされ、高揚した気分が社会に充満していた。その意味でも天地真理はそういう、昭和40年代に入ってから続いていた[昭和元禄]の気分をもっとも良く体現したようなタレントでもあったと思う。

ポンチ絵を説明するような形になるが、そこに石油ショックが襲いかかり、大衆文化にも亀裂が入る、そのことを雑誌『平凡』的に象徴しているのが、女性タレント部門での天地真理さんから山口百恵ちゃんへの交代劇だったのである。

オレはここまで突き放したような口調で天地さんのことを書いてきているが、じつは人ごとではなかった。あのとき、オレにはなにが起こっているか、よく分かっていなかった。

いま思い返してみて、あらためて感じるのだが、1973年の天地さんはその歌とともに、もっともトレンドのトップに近い部分で大衆に受け入れられた存在だったのだと思う。うたっていた歌の本質は、あっさりさわやか系とでもいえばいいだろうか、歌謡曲が持ちやすいドロドロした情念や複雑な人間関係を連想させる愛憎をほとんど連想させなかった。

考えてみると、後発の山口百恵ちゃんの歌は、仕立てがローティーン向けにはなってはいるが、うたわれていた歌の(あなたにだったらなにをされてもいいわ、というような)内容はひと世代前の藤圭子さんの(また男にだまされちゃった、というような)怨歌や、北原ミレイさんの「ざんげの値うちもない」(14歳になったとき、男に抱かれてみたかった、みたいな歌)などと同じ位相の女の子の性意識の歌である。

天地さんは歌が下手とかいわれているが、じつは大違いで、高校は音大の附属高校の声楽家の出身である。なぜ大学までいかなかったのか、その周辺の事情はよく分からないが、天地真理の名前を名乗る前はたしか、水田まりという、ギャグなのかなんなのか分からないような芸名でフォークソングを歌っていたという話を聞いたような気がする。あまりむずかしい理屈をこねるのが得意でない、情感の発達した女の子だったし、小柳ルミ子さんのように男勝りで気が強い人でもなかったから、スタッフのお膳立て通りに仕事していた印象がある。彼女がうたっていた歌も[オトコにだまされた]系列の歌謡曲ではなく、ヤマハ・ポプコン系の、つまり[さわやか・あっさり]系の歌だったと思う。歌にあまり陰影がなく、健康な感じはするが、長く持たない生鮮食料品というか、サラダみたいな歌だった。叙情性に深味がなかったという書き方をしてもいいかもしれない。

これらのことをあの時代にはめ込んでいろいろに考えると、思い当たることがひとつある。GSのテンプターズの大ヒット曲「エメラルドの伝説」や赤い鳥の「翼をください」の作曲家だった村井邦彦さんが、自分のレコードレーベルであるアルファミュージックを立ち上げ活動を開始するのが1969年のことで、71年にまだ高校生だった荒井由実さん(ユーミン)と作家契約、立教女学院を卒業し、多摩美(多摩美術大学)の学生になった彼女を口説く。本格的にシンガーソングライターとしての活動を開始するのが、72年、最初に出したデビュー曲の『返事はいらない』は300枚しか売れなかったらしいが、そのあと、73年から『きっと言える』、『ひこうき雲』、74年に入って『やさしさに包まれたなら』、『十二月の雨』、とヒット曲を連発し始め、75年に『ルージュの伝言』、『いちご白書をもう一度』(作詞・作曲を担当。うたったのはビリー・バンバン)『あの日に帰りたい』と連続して大ヒットを飛ばし、既成の芸能界・歌謡界とはまったく異なるマーケットを作り出してしまう。これがつまり、ニューミュージックである。

当時、吉田拓郎や井上陽水、『神田川』をうたった南こうせつとかぐや姫、さだまさしのいたグレープなどもすでに歌をヒットさせて、芸能界の一角に存在感を見せ始めていた。

オレの考えでは、天地真理さんが持っていた膨大な量の支持票は形態的にはトレンド(流行)だったのであり、時代の気分だった。彼女の[人気]は74年以降の、ニューミュージックのマーケット形成に一役買っていったのではないかと思う。ユーミンの作る歌は真理チャン担当の作詞家たちが用意する歌詞より少女なりの人生観をうかがわせる叙情性の高いモノだった。これは彼女の才能だろう。オレは、天地真理ちゃんの人気失墜の最大の戦犯は渡辺プロとCBSソニーだったと思う。そのころ親しくしていた人たちだから、こういう書き方をするのは心苦しいが、彼女の敗戦の戦争責任はこういう時代のトレンドを読み切れず、変化についていけなかった両社のスタッフにあったと思う。

あれこれ考えると、未だにオレの思いは複雑である。

 

それで、ある日、オレは上司(副編のガンさん)に呼ばれて、「シオザワ、もう今月から天地真理を担当しなくていいよ」といわれるのである。この時点で、彼女は毎月レギュラーでページを割く主要なタレントではなくなったのだった。人気投票の得票数が一年のあいだに十分の一になってしまったら、それは当然のことだろう。ただ、この年に一位になった山口百恵さんの人気もその時点では天地の前年の熱狂的な状況には遙かに及ばなかった。

昭和48年の天地真理はアニメのキャラクターと同じような、観念的でトレンディな、大衆に熱狂的に支持された記号のような存在だった。そして、山口百恵はここから五年かけて、また別の変容進歩を遂げるのだが、それは別の話。

オレは上司から担当替えをいわれて、自分が担当の編集者からはずれることを当時、渡辺プロのほかのタレントたちの取材を担当していた編集者(天地真理だけ俺の担当だった)といっしょ彼女に話しにいった。テレビ局の彼女の楽屋を訪ねて「今月から、ボク、真理ちゃんの担当じゃなくなるから」と切り出した。彼女は「シオザワさん、わたしの担当じゃなくなるんですか」といって、泣き出した。わたしはなにも言えなかった。

この一連の出来事は、彼女にしてみればどうしようもない、坂道を転がり落ちるような人気下落にともなって起こったことだった。オレが新雑誌への異動を命じられたのは、それからしばらくしてである。

その異動はオレの場合、もう月刊に必要ないから出ていってくれという[左遷]の意味合いと、「お前はもう子供向けの雑誌は作らなくていいよ」という[卒業]のようなニュアンスもあったのではないか。

それに並行して『平凡』の読者だった人たちも、もうこの雑誌は卒業して、今日からは朝日ジャーナルとか中央公論とか世界みたいな雑誌を読みたいと思いはじめる、ということがあったのではないかと思う。つまり、人間として子供から大人へと成長して雑誌からもタレントからも愛唱していた歌からも離れていったのである。天地真理さんの人気急落はそういう社会総体の運命的な動きの惹き起こした悲劇だったと思う。

 

今日はここまで。 話は変わるけど、おめでとう、日本代表! 

Fin.