この話はオレがどういうことがあって、大学を卒業したあと

芸能雑誌の月刊『平凡』の編集をやることになってしまったか、

また、『平凡』という雑誌で、最初、どんな取材をやっていたかの思い出話である。

 

学生時代、一度は[日本にはいまこそ革命が必要だ]などと考えた学生のひとりだったオレが、それがどうして、就職活動のすえ、大手出版社のひとつだった[平凡出版]に就職してしまったのか。学生だったころのオレというのは、革命に憧れているくせに基本的にナンパで、可愛い女のコだったら誰とでもデートしたいという、全方向的にだらしのない男だった。現実、回りに可愛い女のコがいっぱいいて、そういう目の前の女のコたちと付き合うので忙しく、テレビの世界のアイドル歌手にはあまり興味がなかったが、それでも歌が好きだったから、歌手の黛ジュンさんとか中村晃子さんとかいしだあゆみさんとかは〈この子たち可愛いな〉と思っていた。とくに、1968年に『ブルーライトヨコハマ』を大ヒットさせていたいしだあゆみさんは、美少女で、いい女だった。

いころは迫力のいい女だった。

ここまでがこの話の予備の説明で、ここから本題が始まる。

 

時代はちょうど学園に猛烈な紛争の嵐が吹き荒れる、激動の1968年で、オレが在学していた早稻田大学も例外ではなく、特にわが文学部はバリバリの過激派革マルが自治会の実権を握る学部で、オレたちが四年生になった69年、大もめにもめて全学無期限バリケードストライキというムチャクチャな状況に突入する。オレも卒論を書くためにマルクスの『資本論』とか読んでいるうちに、日本が今よりよくなるためには革命が必要だ、なんてことを考え始め、ストライキ賛成派の立場に立って、顔を手ぬぐいで隠してヘルメット+角棒というところまではいかなかったが、革マルの組織するデモ隊のおしりにくっついて参加して、あちこちデモして回った。本当は就職活動をやっていなければいけない時期なのにである。

バリケードストライキをやっているのだから。当然ながら授業もなく、それでも仲間で学校に集まって、自主ゼミみたいなことをやって、それが終わったらみんなでどこかにデモに出かけるというような毎日を過ごしていた。就職活動のことは気になったが、日本社会の来たるべき革命のために、自分の就職活動なんて犠牲になってもしょうがない、と思いながら、闘争続行していた。そんなある日、仲間内で一番の過激派のひとりだった某君が「オレは今から講談社に行くんだ」という。講談社になにしに行くのかと聞くと「入社試験の願書をもらいに行くんだ」というのである。

オレはその答に驚いて「だってオレたちは日本の革命を目指して闘うんじゃないのかよ」と聞いたのである。そしたら、彼は「それはそれ、これはこれなんだよ」といったのである。そのころ、いろいろな人といろいろな話をしたが、このセリフくらい衝撃的だった言葉はなかった。

ずっと就職試験をどうしよう、このままじゃまずいと考えていたのだが、革命運動と就職活動ではやっていることが矛盾しているような気がしていたのである。そしたら、彼は[それはそれ、これはこれなんだ]という。オレはこのセリフに救われたような気がして、あまり深くも考えず、自分もこっそり内緒で講談社の入社試験を受けに行って、この試験に落ちた。講談社の試験は自動車免許を取るときの適性検査の筆記試験みたいで、オレはああいうのが苦手なのである。それで〈これはまごまごしているとどこにも就職できないぞ〉と考えて自分で新しい就職先を探さなければと思って、昔、大隈講堂のそばにあった就職部の求人告知のカードを見にいって、そこで[平凡出版]という出版社の新入社員の募集を見つけるのである。掲示板には希望者のうちから15名を選んで推薦する、それで先方の試験を受ける、と書かれていた。出版社は人気職種で、大勢の人が入社希望で殺到するから、なんかコネみたいなものがないとダメかも知れないと思いながら、これの受験希望カードを出した。そしたら、どういうわけなのか、推薦の15人の枠のなかに入れた。いまでも覚えているのだが希望者が96人いて、そのなかから15人が選ばれて、試験を受けに行ったのである。

話に全然いしだあゆみが出てこなくて、どうなってるんだろうと思うかも知れないが、もう少しの辛抱です。

それで、そうやって集められた学生が120人そろって、みんなで試験を受けた。筆記試験に合格した人が15人、今度は面接試験。問題は面接試験である。細かい話になるが、平凡出版はいまのマガジンハウスのことで、当時は芸能雑誌の月刊『平凡』、芸能週刊誌の『週刊平凡』、若者向けの週刊誌『平凡パンチ』という三つの百万部を超える発行部数を持つ大衆娯楽雑誌を出している雑誌社だった。当時、学生のあいだで雑誌というと『平凡パンチ』と相場が決まっていて、ヌードの頁とか学生運動を取り上げた頁とか、けっこう過激で面白く、これが大人気だった。それで、この会社なら面白い仕事ができるかも知れないと思った。

平凡出版の試験に受かったあと、アルバイトで呼ばれて編集を手伝った雑誌。

オレが一番最初に編集に参加した雑誌である。これも表紙はいしだあゆみさんだった。

 

筆記試験に合格して、面接試験という話になって、さて、どうしようと思った。

平凡出版について知っていることというと『平凡パンチ』がどういう雑誌かということだけで、月刊『平凡』と『週刊平凡』については芸能に関係しているということはわかっていたが、それ以上のことはなにも知らなかった。書店でみかけたことはあったが中身は読んだことがなかった。それで、家の近くの書店に行って、二つの雑誌を立ち読みしたのである。

まあ、これは二つとも芸能雑誌だから当たり前のことなのだが、『文藝春秋』『中央公論』というわけにもいかず、そうかといって『平凡パンチ』のような過激さもない、女性や十代の子たちが読む、芸能人がいっぱい載っている雑誌だったのである。しかし、オレはそこで、いしだあゆみさんのかわいい写真を見つけたのだ。

「ブルーライトヨコハマ」をヒットさせたころのいしだあゆみさん

 

彼女はこのころ、「ブルーライト・ヨコハマ」という歌を大ヒットさせていて、彼女がテレビでこの歌を歌っているのを聞いて、こういう女の子と二人でヨコハマデートしたら楽しいだろうな、とぼんやり空想していたのである。それで、短絡的で楽観的なのだが、月刊の『平凡』の編集部に入れたら、いしだあゆみさんと友だちになれると思った。彼女は当時、森進一と噂があったのだが、オレとしては直接会って森進一なんかにだまされるな、といってやりたかった。

話を本筋にもどす。面接試験のことである。オレは、面接試験を予想して、面接官から「希望の職場はどこですか」と聞かれたとき、きっとみんな、『平凡パンチ』をやってみたいというだろうなと思った。そして、オレも同じように答えたら、必ず他のことで比較されることになるのだろうと考えた。[パンチ編集希望]というくくりの仲間に入れられたら、競争相手が多くて合格はむずかしいのではないかと思った。

このへんがオレの悪知恵が発達しているというか、なんというか、世知辛く世間ずれしていたといってもいいかもしれない。オレはその質問にはビックリアンサーで「希望の雑誌は月刊『平凡』です」と答えることにした。恐らくそういうふうに答える人はいないだろうと思ったのである。それで、合格して月刊『平凡』を作ることになったら、いしだあゆみちゃんに会える、お茶飲んだり、いっしょに食事したりできるかも知れないぞと思ったのである。『平凡パンチ』よりそっちの方が全然いいかもしれないぞと思った。

とにかく、この試験に合格しなければ、なにも始まらないのである。面接では、オレが事前に書いて提出した小論文を面白いと褒めてくれて「キミは原稿が書けるようだけど、どこで習ったの」と聞かれた。それで、そのころ既に知り合いの出版社で雑誌の原稿書きなどをしてお小遣い稼ぎをやっていたのだが、そのときはそんなことは全然言わず、「自分で練習して覚えました」と答えた。これはホントのことで、文章書きを誰かに教わったということはない。

そのあと「入社したらどの雑誌をやってみたいですか」と聞かれたので、胸を張って「月刊平凡です」と答えた。これは案の定、予想を裏切るような答だったみたいで、ズラッと並んでいた面接官の一人がうれしそうな顔をして「そうですか、どうして月刊平凡をやってみたいんですか」と聞くのである。ここで、まさか「いしだあゆみちゃんと友だちになりたいんです」というわけにもいかず「面白そうだと思うからです」と答えた。どうして面白そうだと思うのか聞かれたら「どうして面白そうに見えるのか、その原因を知りたいんです」と答えようと思っていた。ちょっと知的なかえしである。

それでこのとき、わたしにあれこれと熱心に質問した人こそ、当時の月刊平凡の編集長で編集総局の局長の斉藤茂さんだったのである。わたしは結局、この人の熱心な推挽で、入社試験に合格し、入社後も後ろ盾になってもらって、芸能記者として仕事を始めることになるのである。あとから振り返ってみると、この新卒学生の推薦枠で集まった入社試験で合格したのはわたしひとりだった。700倍を超える猛烈な狭き門だったのである。じつは、いしだあゆみの話は、ここまでが前説なのだ。

 

当時の芸能界の屈指の美女だった。

 

念願かなってというか、ことの必然としてというか、4月に月刊『平凡』の編集部に配属になったあと、いろんなことをやらされたが、ついにいしだあゆみさんに会う日がやってくる。雑誌のなかに「わたしの重大ニュース」という定例頁があるのだが、そこでいしだあゆみの記事を書かせてくれ、と頼みこんでOKをもらい、五月の中ごろだったと思うが、取材を申し込んで、NHKだったと思うが、歌番組の待ち時間のあいだに話を聞くということになって、本人に会いにいった。彼女は胆石が痛くて入院して手術して退院したばかりで、それが彼女の重大ニュースで、その胆石で手術したていたときの話を取材した。

実物のいしだあゆみちゃんはグラビアやテレビのブラウン管で見るよりずっと美人だった。所属事務所(当時は芸映に所属していた)のマネジャーに紹介されて、差し向かいで話をはじめて、彼女の塩梅は「身体の方はホントにもうなんともなくて大丈夫なんです」というような話だったのだが、オレはすつかり緊張して「ハイハイ」とあいづちをうちながらアッという間に身体中の交感神経がパルスを総動員してフル稼働、たちまち汗がダラダラと噴き出してきて、彼女を驚かせた。

あゆみちゃんに「平凡サン、大丈夫?」と心配されたが真っ正直に、あなたに会うために平凡出版に入ったんですともいえず、なにか余計なことをいいたくてもそばにマネジャーがついているので無駄口もたたけず、マネジャーが「シオザワさんは平凡の新入社員なんだそうです」というようなアシスト的な説明をしてくれた。

あゆみ本人からは「シオザワさん、お仕事がんばってくださいね」と励まされて帰ってきた。励まされて嬉しかったが、そのときの彼女の話はそれほど面白くなく、綺麗なだけのお人形みたいな女のコだなと思った。

しかし、この話にはつづきがある。この年の11月11日に、オレの毎日つけていた『ノート』には新人歌手でデビューしたあゆみの妹の石田ゆりの取材をしたという記録が残っている。たぶん、会社のそばの喫茶店でインタビューしたのだと思うが、石田ゆりは天真爛漫というか、まだ十八歳で、高校を卒業したばかりのあどけない少女だった。彼女はデビュー曲をそこそこにヒットさせたが、アッという間になかにし礼につかまってしまって引退して結婚してしまった。それは後日の話だが、彼女に会った日の話のつづきで『ノート』にはこんなことが書いてある。

 

 石田ゆりと出会っていろいろと話しているうちに、お姉さんのいしだあゆみのことを思い出した。いしだあゆみと初めて出会ったのは、たしか五月の終わりごろだったと思う。そのとき、息が詰まるような緊張感のなかで、汗びっしょりになりながらインタビューをしたのだが、彼女は大病から病みあがったばかりで、いろいろと話をしたが、イメージとはだいぶ違う女だなと思った。

 それから六月に和田アキ子を訪ねて、NET(=現テレビ朝日)の楽屋にいったとき、同室であゆみもいた。あゆみはオレのことを覚えていてにっこり笑って「こんにちは」と挨拶を交わしてくれた。

 

このとき、和田アキ子といしだあゆみが同じ楽屋だったことは完全に計算外だった。ここから、話に和田アキ子が登場するのだが、今日はここまで。

 明日につづく。