いずれ新御三家のことを書かなければと思っているのだが、その前に、どうしても文章にして、きちんと位置付けをしておきたい人がひとりいることに気が付いた。誰かというと、ジュリーの愛称で呼ばれていた沢田研二さんである。

わたしは沢田さんの担当編集者だったわけでもなく、親しく口を利いて行き来していた間柄だったわけでもないのだが、沢田さんのことを思い出すたびに、彼は不思議な男だったと思う。そして、あのころ、彼が放射していた威圧感のあるオーラというか、カリスマ性はいったい何だったのだろうか、と思うのである。

例えば、沢山の人たちが集まって来て、芸能界の売れっ子たちの社交場のようになっていたフジテレビの『夜のヒットスタジオ』の楽屋での彼は、なんとなく他の人からは全然感じないディグニティ(威厳)のようなものを感じさせた。あれはどういうわけだったのだろうと思うのだ。そういうことを考えるたびに、もしかしたら、彼は目の前にあったそのときの芸能界とは別の基準というか、別の秩序のなかで仕事していたのではないかという気がするのだ。

これはもしかしたら、一時代前のグループサウンズ全盛期に[ザ・タイガース]で頂点を極めた経験と関係しているのかも知れない。このころから「ファンレターなんか要らない。読まない」と発言して物議をかもしたりして、目の前の人気を全然信用していないようなところがあった。

わたしが芸能記者だったころ、細かいことは忘れてしまったが、いろんな歌番組の楽屋で居あわせて、何度か言葉も交わしたし、コメントをもらう取材のようなこともやったこともある。天地真理さんとの対談だとか、表紙の撮影などの取材現場でもいっしょに仕事している。印象としては、ほかのタレントたちと全然違う独自の磁場のようなものを持った、なんとなく孤独な雰囲気を持ったカリスマだった。

分析的なことを書くのだが、沢田さんが芸能界の第一線、一番波風の強いトレンドのトップである大衆芸能の表舞台(マスコミの歌番組)で活動し、輝いていたのは1960年代の半ばから1990年代のある時期までではないかと思う。これは異論があるかも知れないが、ある時期から以降の彼はかつての美空ひばりと同じような、世間の常識的な基準をあまり気にせず、自分の信じる道を歩く、大衆芸能の世界から生まれたアーティスト(ニューミュージックのプロダクションのマネジャーたちが歌手ということばの代わりに使うアーティストではなく、本当の意味での大衆藝術家という意味に受け取ってもらってかまわない)になっていったのではないか。

彼はまず、アイドル歌手として、トレンドのピークで活躍した期間の長さが他の人と全然違っている。要するに、息の長い、重量感のある、他にいないアイドルだった。芸能界は80年代に入ると、アイドルはみんなテレビタレントとして活動していく形にシフトしていったが、彼はそういう動きからも超然としていた記憶がある。また、テレビというメディアとのつきあい方も割りきっていて、思い通りにならなければ出演を拒否するというような、ニューミュージックの歌手たちのような子供っぽいマネージメントのタレントでもなく、ある程度は時流と妥協しながらタレント活動していたが、そういうなかで、いつも大衆と直截的につながる方法論=ステージを中心にした仕事の確立を模索していたのではないかと思う。

60年代から70年代にかけて同じような立ち位置で大活躍し、いまも変わらずに仕事しているタレントというと、ジュリーの他に、マチャアキこと堺正章さんがいる。この人もグループサウンズの残党なのだが、わたしは昔、彼の担当記者で、仲良しだったのだが、彼の場合は、親しみやすい、どことなく賑やかで軽剽な雰囲気が売り物で、歌手として本腰を入れて歌を歌えばヒットはするのだが、そのことよりも重要なのはテレビ番組の司会やテレビドラマへの出演で、そっちがメインワークというふうに考えていた。この人のこともいずれ文章にする機会があるだろうと思う。

マチャアキに比較すると、ジュリーはたぶん[歌]という、歌手が独自に自分の世界を作りあげるという芸の本質に関係があるのかも知れないが、彼はそのころはたまに映画に出たり、テレビドラマに顔を出すこともあったが、ほとんどのスケジュールを歌を歌うことに費やしている純正の歌手だった。芸人でも芸能人でもなかった、画家や作家と同じような[表現者]だったという意味である。楽屋には、細い身体にいつもヨレヨレのはき古したジーパンをはいて、やってくるのだが、その佇まいは物静かで、温和な雰囲気と、なにやらわけがありそうだなというような、一抹の暗さも感じさせた。

テレビドラマの「寺内貫太郎一家」で、樹木希林扮するおばあさんが大声を張りあげて「ジューリー!」と絶叫する場面があったが、そういう、たくましく生きているしたたかな女たちを秒殺してしまうような独特の色気というか、重量感があった。テレビカメラの前で発光する歌手としての輝きも、彼の場合はあたり一面が闇黒の世界で、彼ひとりだけがまばゆく輝くような、そういうイメージの豊かさを感じさせた。これは才能だったのだろう。

あまり専門的なことを書いてもしょうがないのだが、わたしが月刊平凡でアイドル歌手たちと仕事していたころは、取材対象と他愛なくじゃれ合っているような原稿を書けば、それで読者の若い人たちが喜んでくれるような単純さがあった。タレントたちはそれぞれ、独自の光を放っているように見えたが、これがどういうことなのか、最初、その意味がよくわからなかった。

それが、ある時期、解るようになった気がした。週刊誌に異動になって、大人の読者相手に原稿を書くようになってから、芸能人とはいったい何なのかということを真正面から考えるようになった。そして、彼らの本質をタレント生命というふうに考えたのである。タレント活動をタレント生命を活性化したり、衰弱させたりする作業と考えると、それぞれの人たちの日常的にやっていることの意味もなんとなくわかってきた。それでこの考え方で当時のタレントとしての沢田研二を分析していくとこんな話になる。まず、彼の人気のことだが、昭和48年、1973年の夏休み発売の月刊平凡9月号で行った人気投票の上位五人はこういうメンバーだった。

 

第一位 郷ひろみ 90158票★

第二位 西城秀樹 52320票

第三位 野口五郎 45059票

第四位 フォーリーブス 15331票★

第五位 沢田研二 9078票

 

ジュリーは5位に甘んじていて、6位は森田健作だった。このときのこの人たちの年齢を調べると、郷17歳、西城18歳、野口17歳、フォーリーブスの平均年齢21歳、このときジュリーは25歳である。このころの『平凡』の読者は中学生から高校生にかけての思春期の青少年だった。中心的な熱心な読者は女の子たちだったと思う。そういう人たちからすると、彼は十歳以上年上の男なのである。このことだけでも、彼がわたしたち(若い人向けの娯楽雑誌編集者たち)にとって、不可思議な存在だったことがわかる。

彼が1960年代に最初の人気絶頂期を持つ輝かしいキャリアの歌手だったことはすでに書いたが、1970年代に入ると、まず72年、沢田はショーケンこと萩原健一とダブルボーカルで活動していたロックバンド「PYG」を解散し、ソロ歌手として『許されない愛』を大ヒット(ソロとしての歌手デビューは71年の「君をのせて」)させる。

歌謡曲のこの時代の思潮のような話なのだが、グループサウンズが凋落していったあと、藤圭子や内山田洋とクールファイブ(前川清がいた)の歌がもてはやされた演歌(怨歌と呼ばれた)の時代がしばらく続き、70年代に入っても、にしきのあきら、野村真樹などの新人歌手たちは〝リズム演歌〟ともいうべき曲調の歌をうたってデビューしているし、後に新御三家のひとりとなる、デビューが一番早かった野口五郎もデビュー曲は『博多みれん』という演歌だった。

この流れに杭を打ったのが、沢田さんが初めてソロで発売した『君をのせて』と、西城秀樹のデビュー曲だった『恋する季節』で、わたしの記憶ではこのふたりに郷ひろみが加わり、野口五郎もこのときすでに路線変更して『青いリンゴ』をスマッシュヒットさせていた。この人たちが好きになった女性への思いをそれぞれ歌にして、70年代の〝歌謡ポップス路線〟を確立していくのである。

沢田さんはこのあと、「あなただけでいい」、「死んでもいい」、翌73年、「あなたへの愛」、つづいて「危険なふたり」、この曲はオリコンで一位を獲得する、これも大ヒット。それから「胸いっぱいの悲しみ」、……このあと、えんえんと歌の題名を紹介していってもいいのだが、それは辞めておく。

いま思えば、ジュリーはとにかく進化しつづけていた。音楽的にも、ファッション的にも、マネージメント的にも、猛烈に革命的だった。80年代に入ってからのことだが、フランスやイギリスまでいって、そこで歌をヒットさせてしまったりしている。

あのころの彼にはものすごいスピードで、無人の荒涼とした荒野を疾走しているようなイメージがあった。最近のことをいうと、テレビでちょっと姿を見たのだが、その時、昔よりかなり太ったな、と思った。

誰から聞いた話だったか忘れたが、彼は年をとっても昔通りの声を出そうと思うと、身体を大きくして、発声が衰えないようにせざるをえなかったというのである。考えてみると、オペラ歌手にはものすごい大きな図体の人がいるが、あれはああいう体型でなければ出せない声があるということなのだ。彼がなにと戦っているのか、相変わらずわたしたちはそれを見通せずにいるということなのだろう。

彼はもうあまりテレビなんかに出てこなくなってしまった。その話を聞いて、ジュリーは年を取ったが、昔と相変わらず、猛烈な勢いでひとりだけで広漠とした荒野を走りつづけているのだな、と思った。(つづく)

 

悪いクセで、またまた長大な原稿を書いてしまったので、途中ですが内容をふたつに分けることにします。

このあと、歌手としてのジュリーの本質を論じる部分を明日、キチンと整理して読んでいただきます。

 

今日はここまで。 Fin.