カレンダーに[母の日]とあったので、自分の母親のことを書こうと思う。

この写真は四十代半ばに撮影したもの。わが母ながら、きれいな顔をした人だった。

メガネが器量を落としている。大正七年の生まれだったと思う。生きていれば100歳。

瀬戸内海の港町で育った女である。

安西水丸さんも仕事仲間だった。『青の時代』は本人からもらった本。彼も死んでしまった。

(水丸さんには昔、ずいぶんたくさん原稿料を上げたから画像借用を許してくれると思う)

わたしの母は愛媛県の今治の生まれ。父とは満州で出会って結ばれた。

昭和13年の女学校の卒業アルバムに18歳の母の写真が載っている。

きつそうな顔をしているが、なかなか可愛い。

 

これがわたしのいま手元にある母の一番古い写真。旧姓を田坂壽惠という。

田坂家は今治の名家で一族から今治市長とか、岸信介の家の家庭教師(たぶん娘、つまり安倍晋三のおかあさんの家庭教師)をやって、のちに新日鐵の社長になった田坂輝敬とかが出ている。母はきれいな字を書く、頭のいい人だった。

おしゃれな人で、アメリカ映画が大好きで、ゲーリー・クーパーの大ファンだった。

わたしは子どものころ、出来が悪くて、この人をさんざん手こずらせたが、ちゃんと大学を卒業して、モノを書く職業に就いたから、最後は自慢の息子でいられたと思う。

母が亡くなったのは昭和58年のことだが、その前後のことを文章にしている。

 

会社で課長に昇格し、自分の名前の付いた編集チームを作ってもらったころだったろうか。母親が末期の胃ガンだということを医者から宣告されたのだった。彼は、それまで例えば、女にふられるとか、女房に浮気がばれるとか、スポンサーがどうしてもウンといわないとか、それなりに苦労はあったが、人生の基本の調子は右肩あがりのJカーブで順風満帆、父親としても二人の子供の誕生に立ち会い、人間の死など、残りの他の問題と同じようにどこかベトナムとかカンボジアとかたまにすれ違う霊柩車のなかとか、遠い別世界の出来事だと考えていた。そのときまで、母親は彼にとっては最愛の女のひとりだったのだ。だから突然の母の死の宣告はもちろん初めての経験で、絶望の冷蔵庫に閉じこめられるようなショッキングな体験だった。それは別れて暮らしていた父親からの電話で始まった。一九八二(昭和五十七)年の七月の終わり、二十七日のことだった。朝、突然に電話してきた父親が絶望的な口調で「発見が遅すぎたそうだ。あと1年もたないっていわれた。胃ガンでな、第4期に入ってるそうだ。まったくバカ女が、いくら病院で見てもらえっていっても意地を張って医者のところにいかないからこういうことになったのだ」電話口でそういって、母に直接ぶつけることのできない憤懣を息子にぶちまけた。そういうふうに告げられたときの彼の無念さをどう説明すればいいだろうか。家族が死ぬというのは初めての経験だった。

 

母の闘病生活はおよそ10ヶ月あまり続いて、翌年の5月9日、母の日の前後に死んだ。

わたしはこの時期に限って、気が狂ったようにたくさんの詩を書きつづった。まことに死=詩だった。このとき、百遍あまりの詩を書いて、それを自家製本してまとめた。

豪華黒革装丁、発行部数一部(一冊だけ)の特製私家本である。

『永訣』と名付けられたこの詩集の、作品の一部を読んでいただこう。

 

 

母が死んですでに三十五年たち、七十年のわたしの人生のうちの半ば、三十五年の歳月を母亡きままに過ごして、ここまで来てしまった。

心の幻のなかで母は、いまもわたしをしかりつづける。

「ユキちゃん、しっかりしなさい。キチンとしなさい。人間、一生勉強よ」と。

ここまで年老いてもまだしっかりしない、ちゃんとできないわたしを怒ってくれる。

 

今日はここまで。明日はデヴィ夫人のことを書きます。 Fin.