わたしが平凡出版(いまのマガジンハウス)に就職して、新米の編集者として月刊『平凡』の編集部に配属になったのは昭和45年の4月のこと、いまから48年前である。

この月刊の『平凡』という雑誌は、そのころ、若者たちに人気のあるスター(当時は人気タレントをそういう呼び方をしていた)を取材してその人たちのさまざまなニュース、消息を書いて商売にする、そういう雑誌だった。これは芸能雑誌と呼ばれていた。人気者は時代の変遷に合わせて顔ぶれを変えるものだが、この昭和44年から45年にかけては、政治的にも安保条約改訂の反対運動とか、ベトナム戦争反対運動とか、東大、日大を初めとする大学闘争(大学紛争?)などが連続頻発して世情も騒然、大衆文化の価値基準も猛烈に変化した時期だった。歌謡=音楽の世界でいうと、それまで大人気を誇っていたいわゆるGS(グループサウンズ)のタイガース、ザ・テンプターズ、スパイダースなどの人気バンドが大衆に飽きられ、レコード売り上げを落としてみるみる凋落していった時期で、それに合わせて、わたしが配属になった雑誌の『平凡』もそれまで100万部以上発行していたのが、部数を落として、わたしが芸能記者として仕事を始めた昭和45年の4月には発行部数69万部とかなりの赤信号状態にある時期だった。

『平凡』の編集部に配属になると編集者はそれぞれ、担当のタレントというのを持たされるのだが、そこでわたしはフォーリーブス、ピーター、森田健作の担当編集者になった。GSブームが過ぎ去ってどん底のような状態にあった芸能界はわたしが仕事を始めた時期に合わせるようにして、新しい有望な新人をデビューさせる。そのトップバッターがにしきのあきらと野村昌樹でこのふたりが若年層対象の芸能産業復活の先頭打者になって、全体になんとなく活気づいて芸能界の様子が変わる。そして、やがて百花繚乱の1970年代、芸能界の黄金時代へと突入していくのである。

わたしが担当したフォーリーブスは、グループとして活動を始めたのはGS全盛時代からだが、歌って踊るグループで、楽器を演奏して歌を歌うGSとは一線を画して、なんとなくブームから除外されていて、除外されていたおかげで時代を生き延びたようなところがあった。このフォーリーブスのマネジャーが、ジャニー喜多川さんだった。

ジャニーさんはアメリカで教育を受け(本人から15歳で朝鮮戦争に少年兵として従軍した、という自慢話を聞いたことがある)、当然英語はペラペラでアメリカのショービジネスの世界について詳しい人で、歌って踊り、芝居もするタレントを作るというのが彼の基本的なマネージメントだった。そして、アメリカのエンターテインメントに負けないものを日本で作りたい、ということが仕事の目標だった。このとき、彼はまだ37歳である。

ジャニーさん、左の女性がメリー喜多川さん

 

 わたしはわたしが担当するまでの細かい、フォーリーブスの変遷はよく分からないのだが、グルーブの結成は1967年で、わたしが担当する前にメンバー入れ替えがあり、それまでひとりだけ小学生だった(たしか小学生だったと思う)永田英二がはずれて、青山孝が加わって、のちに大活躍するフォーリーブスの原型が出来るのである。

※写真上段左・江木俊夫、右・北公次、下段左・青山孝、右・おりも政夫

わたしはなにもわからぬまま、前任の担当編集者からジャニーさんとメンバーを紹介され、毎月の付き合いが始まった。フォーリーブスはGSのブームが去ったあと、テレビのバラエティや歌番組で若いまだ十代のタレントして引っ張りだこになっていった。

メンバーは北公次、青山孝、おりも政夫、江木俊夫の四人で、それぞれ微妙に持ち味が違っていて、それなりにバランスがとれていた。取材を重ねるなかでわたしはジャニーさんとも仲良くなっていって、いろいろな話をするようになった。彼の将来の夢は、日本でアメリカのショービジネスに負けないようなミュージカルや芝居やコンサートを開けるような、力のあるタレントたちを作り出したい、ということだった。

この時期、わたしは日本の芸能プロダクションのいろいろなマネジャーたちと知り合いになった。名前は出さないが、何人ものマネジャーたちと知り合って仕事の話をしたが、明確にアメリカの芸能産業をターゲットとして語ったのは彼だけだった。昔、西銀座の数寄屋橋のところに,いわゆる日劇(日本劇場)と呼ばれる劇場があったのだが、そこでは季節ごとだったと思うが、ウェスタン・カーニバルという、ポップス・コンサートとでもいえばいいのだろうか、音楽イベントがあり、GSが解散・消滅したあと、フォーリーブスはそこのメインの看板タレントになっていった。

わたしたちは日劇の脇にあった立ち食いのそば屋やおかめという甘いものや(これはいまでもある)で食事したり、お茶を飲んだりしながら、彼のショービジネスの夢を何度も聞かされた記憶がある。彼は「ボクは男の宝塚みたいのを作りたいんですよ」「いま集まっているジュニアの子たちをみんなタレントにしてやりたいんですよ」といっていた。

そのころは合宿所といっていたのだが、タレントたちがみんなで集まって生活しているマンションが、渋谷の宮益坂のそばにあって、フォーリーブスはそこで共同生活をしていたのだが、周辺に将来、タレントになりたい男の子たちがいっぱい集まってきていた。ジャニーはその子たちにフォーリーブスのバックダンサーをさせて、ジュニアと呼んで、その子たちにもタレント教育していたのである。そもそもジャニー喜多川の日本での芸能活動の第一歩はジャニーズという少年四人組で、ジャニーズのバックダンサーを務めていた少年たちがジャニーズJr.と呼ばれていたところから話しは始まっているのだが、フォーリーブスもこの少年たちを集めて結成したものだった。

昭和46年から47年にかけてのフォーリーブスは人気絶頂を誇っていて、毎月、編集部にリクエストカードのようなハガキが来るのだが、フォーリーブスの取材リクエストはにしきのあきらや野村昌樹よりずっと多かったと思う。

それで、これも昭和46年のことだったが、フォーリーブスがなにかの仕事でアメリカに行くというので、羽田まで見送りに行ったことがある。その帰りに、ジャニーさんと合流して、帰りの車に乗せてもらって、都心に戻ったのだが、そこで初めて、「今度、面倒見ようと思っているンですよ、原武裕美っていうんです」といって紹介されたのが、まだ中学生だった、のちの郷ひろみだった。まだ学生服姿で、お父さんは国鉄南武線のなんとかという駅に勤めている鉄道員、ということだった。とにかくかわいい男の子で、この子だったらいい線いくんじゃないか、と思った記憶がある。ジャニーさんはこの少年に郷ひろみという芸名を付けて、昭和47年のNHKの大河ドラマ『新平家物語』(だったと思う)の若武者の役をもらってやり、これが彼の芸能界デビューとなるのだが、そのあと、同年の8月にフォーリーブスと同じ CBSソニーから岩谷時子が作詞した『男の子女の子』という歌でデビューするのである。

この『男の子女の子』は大ヒットして、彼はたちまち、事務所の先輩のフォーリーブス、先行したにしきの、野村、同じ時期にデビューしていた西城秀樹や野口五郎を抜いて、トップアイドルにのし上がるのである。

この背景には、人気絶頂だったフォーリーブスがジャニーさんに指示されたのだと思うが、「今度、デビューする、僕たちの後輩の郷ひろみ君を紹介します」みたいなことを言って、丁寧に売り込みに協力した経緯があった。フォーリーブス本人たちもまさか、そういうことの中で郷ひろみが自分たちの人気をひっくり返すほどの人気者になるなどとは考えていなかったに違いない。

一方、雑誌の話だが、昭和45年の4月に発行部数69万部だった『平凡』は三年くらいのあいだに倍以上の150万部を超えるところまで伸ばしていくのだが、それはその数年間のあいだに男性タレントでは郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎、フォーリーブス、沢田研二などなど、女性タレントでは小柳ルミ子、南沙織、天地真理の〝新三人娘〟を初めとする沢山の新しいアイドルたちがいっせいに同時期に活躍しはじめたことが大きな原因だった。郷ひろみの人気がいかにすごかったかは昭和48年の9月にやった人気投票の男性タレント部門でのベストテンの結果でよくわかる。それは次のようなメンバーである。

 

 第一位 郷ひろみ 90158票

 第二位 西城秀樹 52320票

 第三位 野口五郎 45059票

 第四位 フォーリーブス 15331票

 第五位 沢田研二 9078票

 第六位 森田健作 8531票

 第七位 三善英史 5126票

 第八位 ガロ 4970票

 第九位 堺正章 3481票

 第十位 にしきのあきら 3197票

 

次点が俳優で歌も歌う石橋正次というランキングだった。

このころの郷ひろみは、当然わたしが、『平凡』の担当編集者だったから、なんでもいうことを聞いてくれる、素直な、大人ずれしていない少年だった。いろんな取材をしたのだが、家族の取材をさせてもらったとき、父親は温和な人だったが、お母さんというのがえらく積極的な、賑やかな人だったことを記憶している。先日、テレビのニュースでオレオレ詐欺に遭ったと報道された人である。わたしが郷の両親に初めて会ったのは彼らが国鉄の宿舎から新しい家に引っ越してきたばかりのころで郷自身の生活環境もこのあたりから急速に変化していったのだと思う。

一方のジャニーはというと、郷ひろみがトップタレントになったことで、自分の[男の宝塚計画]を実行に移すメドが付いたと考えて、フォーリーブスや郷ひろみのバックで踊っている子たちに、そのまま身分名であったジャニーズ・ジュニアの名称をグループ名にしてそれをいくつかにグループ分けしていっぺんにデビューさせようとする。

その時、わたしはジャニーの構想を面白いと考えて、いろいろな形で取材して、頁を作った。このとき、ジャニーズ・ジュニアでデビューした男の子たちは十二、三人いたと思うが、わたしはひとりの名前も思い出せない。そして、いまはひとりも芸能界のタレントとしては残っていない。これはみごとに失敗に終わり、ジャニーの構想は空中分解のような形で消滅するのである。

その一番大きな原因は、郷ひろみがジャニー喜多川のこの[男の宝塚計画]に反旗を翻して、事務所を移籍しようとしたことだった。これは、いくつかの原因があって、そういうことになったのだが、わたしが思いつく理由の一つは、郷ひろみはフォーリーブスの引き立てと売り込みで人気者になっていったが、郷は自分が後輩たちの引き立て役になって、その子たちの売り込みを嫌がったことだった。ジャニーさんにしてみれば、フォーリーブスが郷ひろみにしてあげたことなのだから、郷ひろみがジュニアのみんなに同じことをしてあげて当然だ、と考えていたのだが、そうはならなかった。それともうひとつは、ジャニーについて回っていた噂があったのである。これはいまならそういうこともあるだろうねぐらいの話で済まされることだが、LGBTに関わることなのだが、当時はタブー視されていたことのひとつで、それを郷の両親というか母親が嫌がったのである。

それでバーニングプロに移籍するという噂が立つのだが、これはどういう経緯でそういう話になっていったか、わたしにも正確なところはわからないが、わたしの推測では郷が当時、南沙織のマネジャーだった小口健二氏に事務所を辞めたいと打ち明け、小口さんがバーニングの周防郁雄との間を取り持ったのではないかと思う。

じつはわたしもジャニーさんと郷のあいだが上手くいっていなくて、なにかでもめているというウワサを聞いていたとき、郷といっしょに乗ったタクシーのなかでだったと思うが「シオザワさん、ジャニーさんのやり方、どう思います?」と聞かれたことがあった。わたしはジャニーから「ひろみを中心にしたミュージカルを作りたい、そういう作品を作るために、歌って踊れるタレントを出来るだけ沢山作りたいんです」という将来的な構想を聞かされていたから、ひろみにジュニアを売り込む役をやらせるのは当然だろうと思っていたのだが、彼は、まず第一義的なことを言うと、自分の売り出しに一役買ったフォーリーブスが、そのおかげでトップの座から転げ落ちるところを見ていたから、《ボクはその役はやりたくない》と考えたのだと思う。それとジャニーの悪い噂があることを知って、母親が「ムスコをあんな事務所に置いておけない」と一騒ぎしたのではないかと思う。わたしはそういうふうに聞いている。

郷本人はその二つの問題に加えて、実力もないのに一番人気のアイドル歌手になってしまったことをどうすればいいか分からず、かなり深刻に悩んでいたのである。このことについてはジャニーは一生懸命仕事をしながら実力を蓄えていけばいいと思っていたのだろう。将来の方向、進路、やり方について、絶対的な認識のずれがあった。

わたしが郷に「ジャニーさんのやり方、どう思います」と聞かれたときに、彼が考えていることを丁寧に聞いてあげれば、話の流れはまた別だったかも知れないのだが、わたしはそのとき、「ジャニーはジャニーなりに一生懸命に考えているところがあるんだと思うよ、信用していっしょに仕事した方がいいと思うよ」と彼を説得するようなことをいったのである。それから、彼はわたしになにも相談しなくなった。

わたしはもめ始めたと聞いていた最初から郷とジャニーさんと喧嘩したら、ジャニーはいろいろ言われているが、とにかくジャニーの側に立とうと思っていた。それは事務所が一丸になって郷ひろみを売り出すのに懸命になった経緯をよく知っていたからだった。郷はそれをある程度、子供心に分かっていたと思うが、ジャニーのマネジメントでは解決してもらえない悩みを抱え、ムスコが売れ始めて急にステージママになった母親に振り回される形で、事務所移籍を選んだのである。そのことによって、ジュニアは壊滅状態になり、フーリーブスも郷に人気をプレゼントしてしまった形になって、往年の勢いを失っていく。これが昭和49年ころのことだった。

郷が事務所を移籍したことで、わたしは郷の担当編集者から外された。これは当たり前のことなのだが、その時期にそれまでものすごい人気者だった天地真理も失速して、人気ランキングから転げ落ちるような形になり、わたしの担当は昔の人気を失ってしまったフォーリーブスと林寛子、小林麻美くらいしかいなくなって、雑誌の編集部にいてもあまりやることがない状態になってしまった。それで、別の新雑誌の編集部に異動することになるのである。

このときの異動のきっかけになったことにひとつだけ心当たりがある。これはいままでどこにも書いてないことで、ジャニーさんにもいわなかったが、ジャニーズJr.の子たちがどこかのレッスン場でレッスンしたあと、次の仕事場に行くスケジュールが切迫してしまい、タクシーを呼ぼうとしたが捕まらず、ジャニーに「シオザワさん、どうしよう」といわれて、ハイヤーをよんであげたのである。それで助けてあげたのだが、ハイヤーでの送迎は有力タレントの送迎時に限ることということになっていて、それは編集部のルール違反だった。あとから上司に呼ばれて、「ハイヤーを使う必要ないだろ」と怒られた。それまでもわたしは、ちょこちょこハイヤーを使っていて、これが、天地・郷の二大トップタレントを担当していた時期だったら、絶対に文句をいわれるようなことはなかったのである。これでわたし自身ももうこの雑誌は終わりだなと思っているところで、別の雑誌への異動の辞令を受けるのである。

 ジャニーさんと郷ひろみが仲違いしたときにジャニーの味方をしたことで、郷ひろみとの付き合いはそこで終わったが、ジャニーとの信頼関係は崩れず、付き合いだけはつづいた。とくに、メリー喜多川はわたしを可愛がってくれて、わたしが結婚して子どもが生まれたときなど、赤ちゃん用の着るもの(いわゆるベビーウェア)をプレゼントしてくれ、事務所が麻布の一の橋にあった時代だか、女房と生まれたばかりの子どもを連れてメリー喜多川のところに挨拶にいった記憶がある。そのころ、ジュリー藤島はまだ小学生だった。余談だが、そのときのわたしの子どもがいまの作家の塩沢槙である。

 わたしが雑誌を異動したあと、ジャニーズ事務所はフォーリーブスの人気も次第になくなっていって、売れっ子タレントが誰もいない、まあまあのタレントが川崎麻世と井上純一という苦しい時代を過ごす。たのきんトリオで久しぶりにひと山当てるのは郷ひろみが事務所を移籍した五年後のことである。

わたしはジャニーとは喧嘩せずに別れたが、昭和53年だったと思うが、フォーリーブスの北公次が覚醒剤かなにかで警察に捕まったことがあった。これがフォーリーブス解散の大きな原因になるのだが、わたしはそのころ、『週刊平凡』という芸能雑誌の特集記者をやっていて、副編集長の遠藤顕一さんからから「フォーリーブスだったらシオちゃんしかいないでしょ」とおだてられて、その裁判を傍聴して、北公次の周辺事情を書いたノンフィクションを署名原稿で雑誌に掲載した。それがメリーの目にとまって「シオザワさん、なんてことするの」という怒りを買って出入り禁止になった。何年かして田原俊彦が人気者になった時、偶然にメリーさんと出会い、田原のことを「なんか田舎の子だね」といって、これで本格的に彼女に嫌われた。それからメリーには会っていない。ジャニーさんとはその後、どこかでバッタリ出会って、挨拶を交わしたが、それも三十年くらい前のことである。

 ジャニー喜多川は昭和から平成につながる時代の流れの中で、試行錯誤し、さまざまのタレントで成功と失敗をくり返しながら、さまざまのタレントたちを作り出し、いまや男の宝塚どころの話しではない状況を招来した。彼は昔は表に出て取材でインタビューなどをうけるのを猛烈に嫌がっていたのだが、このごろ、そういうわけにいかなくて、きちんとマスコミの取材を受けるようになり、あれほど嫌っていた顔写真まで世の中に晒され、面が割れるようになってしまった。今年85歳になるはずだ。それでも、彼は新しいタレントを作りだこすことを辞めない。ジャニーの、人間の成長を見極める才能は異常なものがあり、子どものころたいしたことのない顔の少年がタレントになったトタンにみるみる美丈夫というか、いい男になっていく。これを見定める能力は天才的なものがある。

昭和49年のジャニー喜多川のジャニーズJr.売り出し作戦はみごとに失敗したが、その後、彼がいろいろに言っていたことのほとんどは現実のことになった。日本のショービジネスもジャニーが作り出すタレントもアメリカのショービジネスに負けない質の高さを実現するようになった。ジャニーとまたいっしょに仕事したいとは思わないが、あのとき、袂を分かってその後もムチャクチャの努力で生き延びた郷ひろみにはちょっと話を聞いてみたい気がする。郷は昔は歌の下手な歌手の筆頭のような存在だったが、いまや押しも押されぬ実力派である。いいヒット曲を何曲も持っている。

いま、ジャニーズ事務所のあとを継ぐのは誰かということが話題になる。だいたい近藤真彦とか、東山紀之という名前があがっているが、本当だったら、その帝国の王として君臨するのは郷ひろみだったはずなのである。郷ひろみこそ、ジャニー喜多川が作り出した最高のタレントのはずだった。わたしは昔は郷ひろみを嫌いだったが、最近は、考えが変わってきた。彼が芸能の最前線で生き延びるためにした努力は尋常ではなかった。何度もエンターテナーとしての自分を作り直そうとして挑戦的に生きている。

郷にはいつまでも、ジャニー喜多川がそのあと作り出したタレントたちがひとりも敵わないようなエネルギッシュなタレントでいてほしいと思う。わたしは、もしかしたらジャニーも同じように考えているのではないかという気がする。ジャニーと郷ひろみが袂を分かったのはもう45年前のことだが、このときのことを書くのがわたしの勤めではないかとずっと思っていた。

また、いまのジャニーズ事務所のタレントたちについてなにかを書くのであれば、まず、わたしがジャニーズ事務所にどう関わったかを知って置いてもらってから、わたしの書くものを読んでもらいたいと思った。いずれ、スマップやトキオのことをどう考えればいいか、そのことを書こうと思っている。

 

今日はここまで。 Fin.