貝殻を耳に当てると、潮騒がきこえてくる、……

というような書きまわしの詩をどこかで読んだような気がしていて、この原稿を書きながら、ずっと考えていたのだが、思い出せない。『海潮音』かマラルメか、ではないかと思って調べたが、分からない。かわりに、ヴェルレーヌの詩集のなかで、こういう詩を見つけた。

ヴェルレーヌというと、ランボーとホモセクシャルの関係になり、夏休みに遊びにいったベルギーで買ってきたピストルでランボーを撃ってケガをさせ、刑務所に入れられた、メチャクチャな生き方をした詩人のひとりで、それなのに、秋の日のヴィオロンのためいきの身にしみてひたぶるにうら悲し、みたいな情感たっぷりの詩を作った人だ。この人がなくなったのは51歳のときで最後は同棲していた娼婦に看取られながら死んだという。この「貝殻」という作品もそのつもりになって読むとかなり衝撃的である。

大正時代の文筆家なのだが、水上瀧太郎という人がいる。この人に『貝殻追放』という随筆集がある。

随筆というより、日常的に思い考えたことを書きまとめた随想録といった方がいいかもしれないが、その巻頭言(はしがき)はこういうモノである。

 

 古代希臘アゼンスに於いては、人民の快しとせざるものある時、其の罪の有無を審判することなく、公衆の投票によりて、五年間若くは十年間国外に追放したりといふ。牡蠣殻に文字を記して投票したる習慣より貝殻追放の名は生まれしとか。

 今日人は此の単純野蛮なる審判を、吾等には無関係なる遠き代のをかしき物語として無関心に語り伝ふれども、熟々惟みるに現在吾々の営める社会に於いても、一切のことすべて貝殻の投票によりて決せらるるにはあらざるか。厚顔無恥なる弥爾馬がその数を頼みて貝殻をなげうつは、敢えてアゼンスの昔に限らず、至る処に行わると雖、殊に今日の日本に於いてその甚だしきを思わざるをえず、その横暴に苦しみつつ、手を束ねて追放を待つは、潔きには似たれどもわが生身の堪ふるところにあらず、果たして多数者と意識を同じくするや否やはしらずといえども、然かず進んで吾も亦わが一票を投ぜんには。

 

 最初、アゼンスとはどこだろう、こんな名前の都市国家あったかなと思ったのだが、よく考えてみると、ATHENS→ATHENAIのことだった。アテネのオストラシズム(陶片追放)のことで、いわゆる村八分みたいなモノらしい。

 この文章の末尾には[大正六年冬]という記載があるのだが、大正六年は西暦に直すと、1917年で、いまからちょうど百年前のことである。

 水上滝太郎さんはこの文章をまわりから阻害される立場に立って書いたのか、それとも世の中の趨勢を認めて、それにしたがって生きようとしているのか、

この端書きだけでは判断がつかないが、なかで書き進めている論旨は、衆からの孤立を恐れず、向不見(むこうみず)を貫くというモノだった。

 書中の一節にこんな記述がある。

 

 さうだ、文壇も劇壇も、たとへ根底の無い勢力ではあらうけれど、ほしいままに跋扈しているのは向不見の強みを持つ徒輩である。一人ひとり数えると、田圃の稻子に過ぎないけれど密集して来る時の力は恐ろしい。しかし自分は吠えながら逃げる犬を学ぶのはよそう。噛み殺されるまで闘ってみよう。構うもんか、こつちも少しは向不見でやつつけろ、と思った時、自分はすでに大なる群衆の前に石つぶてを浴びている心持ちがして額に血の上がるのを感じた。

 

 こちらは大正七年のもの。これを読むと、百年前もいまも人間がやっていることは同じだなと思う。要するに、衆を頼まず、孤立を恐れず、一人で、己を信じて闘うしかない。そうすれば、自分は死んでもその書くところ、言説は百年の歳月を生き延びることができる、ということだろう。

 わたしが持っている『貝殻追放』は終戦直後に出た、悪い紙で作ったボロボロの本。高円寺の古書の市場で、競り落としたもの、直近で文庫本になって出ているようだ。古代ギリシアのアテネの貝殻追放から二千五百年、水上瀧太郎の『貝殻追放』から百年、わたしの貝殻のコレクションはまだ五十年の歴史しかないが、海で拾った貝殻たちは形を変えることはない。人間の表向きの表情も歳月のなかで変わりつづけるが、前衛になって生きようとする人間の心の内奥の闘争心と葛藤は変わらない。わたしも孤立を恐れず、信じるところにしたがって、蝟集する田圃のイナゴたち相手に闘って生きよう、と思う。(終わり)