分でもわたしの話は長くなっていけないと思っている。

文章を書き慣れない人たちは長い文章を書くのが不得手だが、わたしの場合は、短い文章がついつい長くなって、話が込みいってきてしまう。

今回はそのことを念頭に置いて、第二沈黙博物館の第六展示室、特別扱い資料本の中から、昭和の文豪・横光利一の『旅愁』をご覧いただく。

 

わたしは五冊というか、五種類の『旅愁』を持っている。

まず、横光の死後、改造社が作った全集のなかの三分冊の『旅愁』、それから同じく改造社版の分冊をまとめた『旅愁 全』、それから、昭和三十年代に入ってから、新潮社が作った大判、A5サイズ、上下二巻の『旅愁』、残る二つは文庫本で、新潮社が昭和四十年代に作った『旅愁』上・下と岩波文庫が昨年作った、真新しい編集の『旅愁』上・下。

なんでこんなに同じ小説をいろんな形で持っているんだと思うだろうが、それはこの小説が好きで、横光利一という作家が好きだからである。

わたしは文学者についてあまり掘り下げた原稿を書いたことがないのだが、横光についていろいろ書き始めると一冊の本になってしまうから手短に説明するのだが、横光の単行本は折に触れて、古書を買い集めており、あれこれ集めると、二、三十冊あると思う。なかには四万、五万という値段のついている稀覯本扱いの初版もある。

『旅愁』はそれほどのネハ付いておらず、この作品がそういう、値段の特別高い本と違うのは、沢山売れて、みんなが手放さず、大切に保存されてきた本が多いからだろう。

『旅愁 全』の巻末に河上徹太郎の解説がついていて、これを読むと、『旅愁』という小説がどういう意味を持つ作品か、よく分かる。

『旅愁』のテーマは、ヨーロッパと日本を巡る文明的な対立を背景にして、日本人はヨーロッパをどうとらえればよいか、という問題に、横光利一という作家が必死で取り組んだものである。この、ヨーロッパ受容についての問題意識は、日本のインテリたちにとっては宿命的な縛りで、真面目に考えると、日本の問題はほとんどすべて、西洋の文物をどう扱うのがいいか、という問題に凝集していく。わたしはヨーロッパの歴史が面白そうだから、という軽薄な理由で西洋史学を学んだのだが、それも大学に入ったばかりのころ、この小説を読んで、ヨーロッパが何かを知りたいと考えたのがきっかけだった。『旅愁』は戦前から終戦までにかけて書き継がれた未完の思想小説である。

※文庫の『旅愁』、左が岩波本。

終戦後に出版された『旅愁』はGHQの厳しい検閲を受けていて、これを去年、岩波文庫で出版された『旅愁』と比較すると、戦後の検閲がどういうものか、それに対する自己規制がどういうものだったかもよく分かる。そういう悲劇性もはらんだ作品なのだ。

じつはわたしが持っている五種類の『旅愁』のほかに、終戦直後に改造社から出た、四分冊の『旅愁』という、ボロボロの並製本がある。わたしはこれも昔、持っていたのだが、ある時期、本を見るのもイヤになったことがあり、そのとき、衝動的に古本屋に売り払ってしまった。忘れもしない41歳のときである。それをいまでも後悔している。このとき、寺山修司のサイン本とか小林秀雄の自筆サインのある『ランボー全詩集』とか、いろんな詩人たちの詩集とかも何百冊と持っていて、蔵書自体五、六千冊はあったと思うが、それも全部売り払ってしまった。子供の頃から読んできた本、全部である。

 文庫本が全部で千冊余りあり、それが全部で3,000円の値段がついたのを覚えている。ニーチェとかヘーゲルとかカントの岩波文庫も入ってその値段だった。今思うと、完全に足元を見られていた。横光の本は改造社版の全集だけ手元に残し、単行本は二束三文で売り払った。本が大好きだったから、どうかすると、大嫌いになることもあるのである。この話もいつか書く。

実際、人生を損得勘定なしに衝動的に生きてきてきたから、過去については後悔ばかりだ。たぶん、わたしが過去にばかりこだわってモノを書いているのは、自分があまり将来的なことを計算せず、その場その場で行き当たりばったりで、実験的に生きている人生を過ごしてきたからではないかと思う。

横光利一については問題作は『旅愁』だけではない。『機械』とか『春は馬車に乗って』とか『日輪』とか『上海』とか、初期の短編などいろいろな実験的な文学作品があり、それらの作品について、別途あらためて書くことがあると思う。

※まだ三十代の横光利一。 

一つだけ、横光に関して最近、すごく驚いたのは、手元に三年くらい前の横光について書かれたウィキペディアがあるのだが、これが7ページしかなかったのである。それで、昨日、この原稿を書くために、同じウィキペディアを検索したら、なんとこれが30ページもあった。この話は、尋常ではない、何かを意味していると思う。

直近の作家を調べると、川端96ページ、三島80ページ、石原慎太郎57ページなのに、大江健三郎は8ページしかなく、開高健もおなじくらいしかない。川端や三島も昔はこんなページ数なかったと思う。こういう変化をいいのか悪いのかよく分からない。

ウィキペディアはこんな膨大なページ数になって、かえって、その人の正体が掴みにくくなってしまったのではないか。ちなみに盟友であり、横光の後を追うように三ヵ月後に死んだった菊池寛も9ページしかない。

横光は昭和22年の12月30日に死んでいて、わたしと二ヶ月くらい人生が重なっている。彼の作家活動に戦後は『夜の靴』という、これも衝撃的な作品なのだが、これを除いて、ほとんど存在しない。彼が死んだのは49歳のときだが、わたしは横光利一は作家としてすでに大家だが、夭折した人と書いてもいいのではないかと思う。

まだ、四十代で死んでいるのである。三島のように自殺したわけではないが、自死に近い死に様だったようだ。もし、彼が川端康成並みに(72歳まで)生きていたら、ウィキペディアも96ページになってしまっていたのだろう。そうしたら、『旅愁』や『上海』にこれほどの哀愁を感じなかったかも知れない。

 皆さんも、時間があったら『旅愁』を読んで、日本という国の置かれた宿命的な立場に思いをはせ、パリに旅することを夢見てみて下さい。(この稿、終わり)