斎藤茂さんのことを書かねばならない。

 

※おしゃれでダンディな人で、愛妻家、子煩悩なパパでもあった。

 

わたしはこの人こそ、平凡出版の昭和20年代〜30年にかけての「世の中にあるステキできれいなもの」をひとりでも多くの人に知ってもらいたいという、清水達夫が夢想した戦後の民主的で平和な雑誌作りの編集思想を具現する、もちろんわたしが知っているかぎりでだが、木滑や甘糟が雑誌作りの表舞台に登場する以前の雑誌状況の代表的なスター編集者だったと思う。

そして、何度も書いてきたが、斎藤さんは昭和45年の大学推薦者を集めた入社試験で「キミはなかなかいい原稿を書くね」といって、わたしを選んで、合格にしてくれた張本人でもある。わたしはけっきょく、この人が芸能雑誌局(第一編集局と言った)を離れる昭和57年まで、この人の作った組織に所属して、芸能記者として取材・執筆活動に従事することになる。要するに、斎藤さんはこの時代、昭和45年から57年までのわたしの芸能雑誌編集記者としての世界の一番外側の大きな枠として、存在していた。

つまり、直属の上司とはまた別に、彼はわたしのボスだった。

斎藤さんはじつはわたしの[生涯の恩人ベスト3]に入るような巨大な存在である。

 

斎藤さんについては、わたしはその事跡をなんらかの形で文章にまとめなければと思いつづけてきていて、何人かのかかわりの深かった人たちから話を聞きつづけてきた。わたしの総体的な印象からいうと、斎藤さんはおおむねは幸運で幸福な人生を過ごした人だったと思うが、人生の基本の形はやはり、悲劇的だったと思う。これはすべての歴史的な人が歴史の流れに晒されて移り変わる時流にもまれながら生きざるをえないという意味で悲劇的、ということである。

その意味をさらに詳しく述べると、昭和58年だったと思うが、斎藤さんの平凡出版からの退社に前後して、平凡という誌名のついた雑誌とその社内での業績を否定するような形で社名が平凡出版からマガジンハウスに変更になり、その名前の冠せられた三つの雑誌のリニューアルが行われ、何年後には三誌(月刊平凡、週刊平凡、週刊平凡パンチ)とも何十万部という部数が維持されている現状だったにも関わらず、社主の清水達夫の最終判断で廃刊になっていったからである。

わたしが斎藤さんのことを思い出していつも考えることがひとつある。

それは、このことへの嘆きは最も付き合いの深い腹心の部下であった、もとの月刊平凡の編集長だった高木清さんに漏らした、内心の悔しさを連想させる言葉なのだが、「会社に命じられてこの道を歩いてきたが、気が付いたらいつの間にかその道がなくなっていた」という台詞だった。これは恐らく、斎藤さんを筆頭に昭和30年代から50年代にかけで、平凡出版の芸能編集局に所属した編集者たちの無念の思いを代弁し、自分の、最後は徒労に終わってしまった平凡出版という出版社への全身での献身と無窮の哀惜を言葉にできない形で言葉にしたモノだったと思う。

斎藤さんは平凡三誌が廃刊になったとき、既に社外にあり、レコード大賞の審査員としての力を背景にして芸能評論家として活躍していて、行き場所がなくなったということではないのである。三紙の廃刊時がちょうど定年退職の時期に重なった高木さんも非運を免れる形になったが、残る、斎藤さん、高木さんたちの部下、いわゆる芸能記者だった人々は最後の編集長である月刊平凡の田中実さん、週刊平凡の遠藤顕一さん、ガサコの愛称で知られる名物記者だった折笠光子さんなども社内に行き場所がないような状況で、言葉は悪いが窓際に追いやられて、定年退職までを過ごしたのだった。「いつの間にか道がなくなっていた」という慷慨の台詞は自分の部下だった編集者たちの行き場所がないということと、某氏が「もう芸能人の話は載せるのはやめようヨ」と言ったという、芸能界と平凡出版=マガジンハウスの雑誌の新しい関係性をめぐる苦渋の思いを偲ばせる言葉なのである。

斎藤さんの晩年についてもっと知りたいと思って、長男の斎藤薫さんにもインタビューして話を聞いている。斎藤薫さんは昭和30年生まれで、慶応大学を出て、TBSに就職した人だった。父親の晩年には、運営委員としていっしょにレコード大賞の番組製作に関わったという。わたしが、斎藤薫さんが「いつの間にか道がなくなってしまった」と胸中の無念を側近だった高木さんに漏らした話をすると「父のその言葉はボクは初めて知りました。父は家のなかでは泣き言のようなことをほとんどいわない人で、そういう話も一切しない人でした。母に心配をかけまいとしていたんだと思います」と感想を漏らした。そして「ぼくもそのころ、TBSに入社して四、五年目で一番忙しい時期だったので、詳しい状況がわからないのですが、母親から聞いた話ですが、会社からなにか条件を提示されて、その条件を吞まずに会社を辞めたという話を聞いています」といった。これはたぶん、高木さんの「社外出向を命じられて、相当に悩んでいたのだけは覚えています」という証言と重なっているのではないか。

これがたぶん、昭和57年(1982年)で、芸能総局の担当重役から音響ハウスというマガジンハウスの子会社(録音スタジオの会社)への出向を命じられたときのことではないかと思う。もしかしたら、その「道がなくなった」という発言もこのときのものかも知れない。

彼が歩いた道がどんな道だったかという説明をしなければならない。

 

斎藤さんは平凡出版の、いまや失われて久しい芸能雑誌の道を切り拓き、その雑誌を輝かせ、出版社として業界随一の芸能界との蜜月関係を作りあげた人だった。

 

※斎藤さんは月刊平凡の編集長に就任するまでは別冊や増刊のスターグラフを作っていた。

高木さんたちも一緒。この路線が後の月刊平凡の基本の形になった。

 

わたしの記憶でも斎藤さんはとにかく、芸能人というか、芸能が大好きな人だった。そして、そういう本を作った。つまり、基本的にそれやその人、芸能行為や芸能人が好きという人たちが読む雑誌を作った。

わたしが月刊平凡に所属した昭和45年〜50年にかけての月刊平凡は最初の何ヶ月間だけ、斎藤さんが発行人兼任の編集人をつとめた。これは組織的には(社内身分的には)、編集部の部長というだけではなく、月刊平凡の編集部と週刊平凡の編集部を束ねる芸能編集総局の局長を兼任していたということである。このとき、週刊平凡は新堀さんが編集長だったのだが、45年の秋頃だったと思う、斎藤さんは局長専任になり、月刊平凡の編集長はそれまで副編集長ながら、実質的には現場で編集作業の先頭に立ってきた高木清さんが正式に編集長に昇格した。

高木さんと斎藤さんの関係をいうと、わたしが思い出すのはキナさんと石川次郎の関係で、石川が木滑の雑誌作りの具体的な戦術実行者であったのと同じような意味で、高木さんは斎藤茂さんが持っていた[理想の雑誌]のイメージを具体的な形にしていった現場の司令官だったと思う。高木さんについては、別途にいろいろと書きたいこと、書かねばならないことがあるので、あらためて項目を立てるつもりでいる。

わたしが平凡に入社したころ、斎藤さんは、芸能界では誰ひとり知らない人のいないエディター・プロデューサーのひとりだった。コロムビアレコードとの共催だった[全国歌謡コンクール]の仕掛け人として知られていて、この[コンクール]は古くは神戸一郎や島倉千代子、直近では都はるみや松山まさる(=五木ひろしのこと)をレコードデビューさせていた。斎藤さんの令名は大いに盛んだった。

 

※往時の月刊平凡の編集部。立って電話をしている人が編集長の斎藤茂さん。

左端が高木清さんの若いころ。写真、斎藤さんの右にいてでんわしているのが新堀さん。

 

月刊平凡はそのほかに昭和三十年代の一時期、歌謡曲の作詞コンクールを主催していて、そこで優勝してプロの作曲家になった人たちとたっしゃ会という集まりを作っていた。星野哲郎などの有力作詞家がこの会のメンバーで、斎藤さんはこの活動でも中心人物だった。また、他メディアとの合同作業というと、斎藤さん自身でTBSの歌番組の人たちと組んで、レコード大賞を企画運営していて、審査員のひとりでもあり、歌謡界で隠然たる力を持つ有力なドンの側面も持っていた。

だから、月刊の平凡と週刊平凡は斎藤さん自身の芸能戦略の重要な一部、という側面もあった。つまり、編集者というだけでなく、編集者としての側面を主要部分として機能させるプロデューサーみたいな存在だった。週刊平凡を新堀さんに、月刊平凡を高木さんに編集させる、二頭立ての体制である。

そういう意味では、ほぼその十年後に、石川次郎と椎根和を新雑誌開発の責任編集者として新雑誌開発をつづけたキナさんの立ち位置にかなり似ていたと書いてもいいと思う。

書いたとおり、わたしは自分でずっとこの人の原稿書を書くための材料集めをしてきていて、斎藤さんの長男の斎藤薫さんに会ったり、高木さんに話を聞いて、原稿を書いてもらったりしている。高木さんはまず、斎藤さんの出自、平凡出版にたどり着くまでの経歴をこういう文章にまとめ書きしてくれた。

 

斎藤茂さんについてひと言。斎藤茂さんはご存じのように大正十一年五月二日、群馬県伊勢崎市に生まれました。父上は伊勢崎市内で古くから料亭を営む傍ら、映画館の経営にも携わっていた土地の名士でした。

斎藤さんはこんな恵まれた環境のなかで育てられ、既に少年時代から映画、歌謡曲が大好きな少年で、兄の忠夫さんが後に東宝映画撮影所の名物宣伝部長になられたのも頷けます。茂さんは忠夫さんの弟だったので、業界では「小忠(しょうちゅう)」と呼ばれていました。

昭和十一年群馬県の名門校、前橋中学に入学。同級生には後に東宝の名優となった小林桂樹さんがいました。もう一人の兄の良輔さんも郷土玩具の蒐集家としても著名な朝日新聞社の記者で斎藤家は伊勢崎ではなかなかのエリート一家だったようです。

昭和十五年、早稻田の第一高等学院に入学、同十八年早稻田大学商学部に入学したものの太平洋戦争(大東亜戦争?)風雲急を告げ、学徒動員で陸軍予備士官学校に入学、昭和十九年に南方の最前線基地に従軍。終戦はマレーシアのクアラランプールで迎えたとのこと。従軍中も生来の歌好きと芝居の余興係を買って出て、戦意高揚に務め、なかなかの人気者だったとか。終戦時はポツダム少尉でした。

昭和二十二年無事復員が決まり、晴れて日本へ帰還、早稻田大学に復学、昭和二十四年三月、早稻田大学を卒業。在学中から〝とどろき映画社〟で雑誌『映画』の編集のアルバイト、その後、娯楽雑誌『ラッキー』の編集部に入り、本格的に芸能記者として編集者人生をスタートしました。

『ラッキー』の編集者時代、同僚の春山カメラマンと共に取材で知り合った、当時人気ナンバーワン歌手の岡晴夫氏に気に入られ、彼の後援会誌の〝会報〟を手伝いながら、岡氏の了解のもと、彼の写真を「平凡」などの娯楽雑誌からの依頼にこたえ、その縁で、〝凡人社〟に採用されることになりました。昭和二十七年の秋、そのころ、雑誌、月刊「平凡」は既に百万部を越える大雑誌になっていました。

それからの斎藤さんについては貴兄も十分にご存じのことですから、この辺にしておきます。

 

これが斎藤茂さんについて書かれた、高木清原稿。

斎藤さんが変移しつづける時代の激しい波打ち際をわりあいに幸運に恵まれながら生きていたことがわかる。じつは斎藤さんはほかの人たちと違って、自分で書いた本を何冊か、広済堂出版から『この人この歌』というタイトルの本を、マガジンハウスから『歌謡曲だよ! 人生は』という本を上梓している。両書とも戦後の歌謡界で活躍した歌手たちとの出会い、また、その人たちの人となりを書きつつった本なのだが、特にマガジンハウスから出版された『歌謡曲だよ!人生は』のなかには、彼自身の筆で、自身の生い立ちと平凡出版に入社するまでの経緯がわりあい詳しく書かれている。

この本を読むと、彼自身の芸能記者としての歩みが、終戦後、復員してからの約二十年間、日本映画や歌謡曲などの芸能が国民の娯楽の芸能王者だった時代の王道だったことがよく分かる。

 

※斎藤さんがマガジンハウスから出版した『歌謡曲だよ!人生は』のカバー。

似顔絵は本人が書いたもの。晩年は画家としても活躍し、個展を何度も開いている。

 

創刊編集者の清水達夫が考えた月刊の『平凡』の本来の姿は必ずしも映画スターや人気歌手の佇まいを伝えるファン雑誌的なものではなく、時代の人気者たちが持っているエネルギッシュな活動状況や生きざま、人生に対する考え方や仕事ぶりを通して、その時代の日本社会で生きていることの楽しさ=充実を描きだすことだった。

清水はただ人気者の写真やコメントを載せればいいと考えていたわけではなかった。

それに対して、当然の考え方だが、写真やその人の情報を載せるだけで喜んでくれる人がいるんだから、それはそれでいいじゃないか、それも読者になってくれる人が百万人とかいるんだから文句をいう筋合いではないだろう、簡単にいうと,そういう考え方もあった。

週刊平凡の創刊、平凡パンチの出現、アンアンの登場、社内のそういう状況の変化によって、月刊の平凡は必然的に、わりあい素朴に芸能の好きな人に読んでもらう、そういう考え方で作られるところに移行していくのである。

清水達夫本人の趣味嗜好からいうと、青年時代の清水達夫は木滑良久にいわせれば、「おしゃれな喫茶店みたいなところでコーヒーを飲みながら、一日中誰かとおしゃべりしたり、シャンソンやジャズを聴いていたいような、モダンな若者だった」のだという。そういう話を聞くと、彼が自分が作り出した月刊の「平凡」、「週刊平凡」が百万部を超えるメジャー雑誌になったことに飽き足らず、次々と、時代の先端のトレンドをくみ取ったモダンでおしゃれな娯楽雑誌や生活雑誌、『平凡パンチ』、『アンアン』、『ポパイ』、『クロワッサン』、『ブルータス』などなどを創刊させていった理由がよく分かる。

清水はやがて雑誌のタイトルに「平凡」という呼称のついていた月刊平凡、週刊平凡、平凡パンチなどを時代遅れと考えて昭和末年にすべて廃刊にしてしまうのである。

これは一説には、創業の相棒であった岩堀喜之助との出版社としての立ち位置についての考え方の違いがあり、それが次第に確執になっていったともいわれている。このことを簡単に説明すると、岩堀はそもそもは農本主義的な、二宮尊徳のような考え方をする国民勤労思想の体現者で戦前は中国大陸で日本軍の宣撫官まで務めた人だったが、清水はフランスやアメリカのインポート文化が大好きな若者で、基本の肌合いがだいぶ違っていたのである。それがあって、平凡出版=マガジンハウスのなかで作られた雑誌は泥臭い感じのする岩堀的である平凡三誌と清水が先頭に立って作ったアンアンを初めとするカタカナおしゃれ雑誌に大別されるのである。

平凡三誌が休刊=廃刊になるという話になったとき、岩堀さんは既に(10年ほど前に)なくなっていた。斎藤茂さんは既に退社していて、レコード大賞の中心的人物である芸能評論家として活躍していて、自分に芸能雑誌廃刊の余波が及ぶということもなかったのだが、これらの芸能雑誌がマガジンハウスから消えてしまったことについては、前述したように「会社からこの道を歩けといわれて、一生懸命に歩きつづけていたが、その道がいつの間にか細っていって、最後はなくなってしまった」という感想を漏らしている。これは自分のそういう状況に対する無念の思いもあっただろうが、会社を信じて、芸能界を相手に必死で雑誌作りをしてきて、行き場所を失ってしまった自分の後輩たちの行く末を案じる言葉でもあったと思う。

わたしもあのときの清水達夫さんのやり方は、ちょっとやりすぎだったのではないかと、これはいまでも思っているのだが、この判断の前提には、やはり、芸能が好きか、本当は芸能が嫌いなのではないか、という核心的な事実が潜んでいる。

清水達夫は、これは新堀さんのところでも書いたが、昭和三十年以降、猛烈な勢いで変容しつづけていき、やがて、プロダクションの集合体として、つまり、いまの音事協のような団体が全体のルールを取り仕切って、芸能記者に自由な発言を許そうとしない、圧力団体化していった芸能界をどうしても好きになれなかったのではないかと思う。自分たちの都合で,書けとか書くなとか大きなお世話だ、書いてほしくなかったら、最初になんでもいいから取材してくださいなんて言うな、というひそかな憤りを持っていたのではないか。マスコミを都合のいいときだけ利用しようとするな、という話である。たぶん、それは木滑さんや新堀さんとも共通した思いだった。

斎藤さんや高木さんは芸能や芸能人を好きというところから、芸能界自体のそういう変化に拒否反応を見せず、芸能プロダクションの人たちを仕事仲間と考えて、彼らのリクエストに対応しながら雑誌を作りつづけた。

それが木滑さんや新堀さんたちと斎藤茂さん、高木さんとの大きな違いだったのだと思う。(つづく)