梨元勝さんのことを書いておかなければならない。

そんな芸能レポーターなんか興味ない、という人もいるだろうが、わたしはこの人はもう亡くなられているが、それでもいまでも芸能ジャーナリズムにとっては最重要な人間のひとりだと思っている。彼について書くということは、昭和のある時期からの、日本のマスコミのスキャンダリズム報道について書くということ、さらに、わたしにとっては、1976年から始まって82年に終わった、週刊平凡の特集記者時代について書くということである。

まず、いったいいつごろから、どういうことをきっかけにして週刊誌の特集記事に芸能人の結婚や離婚の記事が載り始めたかという話なのだが、もちろん、わたしにも正確なところはわからない。ただ、スキャンダリズムというのが終戦直後に創刊された雑誌(現物は粗悪なザラ紙印刷だが仙花紙を使っているわけではないから、カストリ雑誌といっていいかどうかわからない)の『真相』などから始まったものだということは確認している。この裏通りジャーナリズム的な雑誌作りは、昭和三十年代の初めに『週刊新潮』がきちんとした形で週刊誌の報道記事として編集しはじめ、それが今日の週刊誌ジャーナリズム、『週刊文春』の不倫報道などの基本線になっているといっていいと思う。

芸能人の生活記事については、これも『真相』などと同時期だが、まだ芸能人とか、芸能界という言葉もなかった昭和20年代半ばの大衆娯楽雑誌の『ロマンス』や『平凡』が編集しはじめた映画スターや人気歌手の私生活レポートから始まっている。

『週刊平凡』の創刊は昭和34年で、この年前後に、皇太子殿下、今の今上天皇の結婚式、人気映画スター同士、石原裕次郎・北原美枝、中村錦之助・有馬稲子などの結婚式を報道した記事を掲載した雑誌が売れ行きが良く、芸能週刊誌・女性週刊誌でスクープ合戦を繰り広げるようになっていった、そして、テレビの普及、テレビタレントの出現と共に芸能界という言葉も一般に、いまのような意味で受容されていったのである。大雑把に言うと、そういうことだった。これらの週刊誌のなかでの芸能人の情報が、最初は結婚報告の記事だけだったのが、婚約の記事、離婚の記事とどんどんエスカレートしていって、だれそれがひっついたとか、浮気してもめているというような、純正のビンク色のスキャンダル記事まで生じていったのである。これは編集的には最初、映画評論家や映画担当の新聞記者などが映画そのものを評論するのではなく、聞きかじった映画スターの生活情報を、いわゆるゴシップとして書き始めたところから始まっていると思う。それが、どうしてこういう発達・進化のし方をしたかというと、大衆とスターの関係性が深化というか、複雑化していったことで、アイドルやスターというひとたちが、まず素朴に人びとから憧れの対象となる存在から、あるときには憎しみの象徴だったり、さまざまの嫌悪の対象だったりする民衆心理が関係する存在になっていったということなのだと思う。これは話がむずかしいので、説明はこのくらいにするが、他人の不幸は甘い水というが、要するに受け手=大衆の側、テレビの視聴者、雑誌の読者にとって、スキャンダルは覗き趣味の極致というかデバ亀的な好奇心を満足させてくれる、ほかにない類いの快楽素材だったのである。

スキャンダル報道に命を捧げた男というと、すぐに梨元勝の名前が挙がるが、実は、梨元の前に何人かの先駆者たちがいる。いわゆるノンフィクション作家というか、レポーターというか、美空ひばりの伝記や、渡辺プロのドキュメントなどを書いたルポ・ライターの竹中労はその先駆的存在だと思うが、テレビというメディアと関わって芸能人のスキャンダルを掘り下げて解説した最初の人は加東康一という人がいたのだが、この人もすでに亡くなられているが、わたしは加東康一が批評対象になった文化としての芸能を最初にテレビで評論した評論家だと思う。

かくいうわたしも加東さんからいろんなことを教わった人間のひとりで、わたしはこの人に教わったものの見方を基本の出発点にして芸能人のスキャンダル報道に関わっていったし、たぶん、梨元勝もどのくらい理論的なことがわかっていたかは彼とそういう話をしたことがなかったから、ちょっとわからないが、たしかテレ朝のアフターヌーンショーだったと思うが、加東さんはその番組に、芸能ご意見番のような形で梨元といっしょに出演していて、個別のスキャンダルについての分析とか歴史的由来とかを説明して、ちょっと辛口なコメントを出していたと思う。わたしはこの人と話をしていて、タレントや芸能人がじつはそのまま商品なのだということに気が付いて、スキャンダリズムが資本によって人格がそのまま商品化された人間の苦悩だということを考えるようになったのである。加東さんが芸能人をマルクス主義経済学的なところで商品ととらえて芸能を考えていたというところまでは思わないが、彼の考え方をヒントにして、わたしは自分なりのスキャンダリズムというものを考究していった。

また、加東康一氏と同列に論じることができるのが桑原稲敏さん。この人も故人になられたが、書名までは失念したが、何冊か、芸能をテーマにしたハードなドキュメンタリーを書いている。この人たちが芸能をどう考えていたかまでは説明しないが、大衆とアイドル、スターの関係は素朴でも単純でもなく、例えば、大昔のことだが,まだ子どもだった美空ひばりが同い年のファンの女の子から顔に硫酸をかけられたり、ビートルズの一人だったジョン・レノンがニューヨークで大ファンの男にピストルで射殺されたりしたことがある。これはなにを意味しているかというと、憧れは同時に偶像破壊願望と同居している、ということなのだ。人間の二面性、ディオニソス的な破壊願望、そこのところにこういうひどい事件が生じて、それをスキャンダルとして報道する[場]と価値が成立するのである。

落合恵子や和田アキ子のところですでにちょっと書いたが、月刊平凡での恥ずかしかった思い出というのは、けっこうストレートなもので、噓ついたり、欺したりしたことなのだが、週刊平凡での[恥]の記憶はもっと複雑で、救いのないものだった。

あまり細かいことを書いていると、また原稿が長くなるから端折って書くのだが、わたしは自分が週刊誌の特集記者になったとき、スキャンダル取材はイヤだなと思ったが、人間のドキュメンタリーは書きたいと思った。しかし、スキャンダルのなかにこそ、人間的なドキュメンタリーを書くに値する人間的真実が存在していることもあるのだ。

梨元勝がわたしたちの前に、ほとんど突然という形で姿を見せるようになったのは、講談社の女性週刊誌「ヤングレディ」が週刊誌ではなくなって隔週刊雑誌になり、芸能ネタを取り扱わなくなってからだった。これは調べると1976年の6月で、これも偶然なのだが、わたしが週刊平凡で特集記者をやるようにと指示されたのと同時である。

ヤングレディ時代も芸能人取材が専門だった彼は、同誌の編集方針の大転換にともなって、素朴で実直なキャラクターが買われてテレビ局の突撃レポーターになっていった。テレビのニュースショーが芸能人のそういうニュースを扱うというのはそれ以前からあったことだったが、番組の重要部分を占めるようになったのはこのころからだったと思う。当時、テレビのレポーターというと、梨元のほかに、梨元が目の仇にしていた前田忠明、鬼沢慶一、須藤甚一郎、福岡翼などがいて、女性レポーターも東海林のり子さんとか、先日亡くなられた武藤まき子さんとか、もともとは演歌歌手のみといせい子とか、とにかく芸能人のスキャンダルだけでなく、芸能レポーターも花盛りだったと思う。梨元勝さんは2010年の8月に肺がんのために亡くなられている。

 

※「絶筆 梨元です、恐縮です。ぼくの突撃レポーター人生録」展望社刊 定価1543円(税込み)

 

死後、「絶筆〜梨元です。恐縮です〜」という表題の彼の闘病記が出版され、わたしは機会があって、その本を読んだのだが、彼は肺癌で(たばこは吸わなかったという)病床に伏せ、なかば死を覚悟しながら原稿を書いているようなところがあり、生い立ちや芸能レポーターとして一番元気だったころの思い出が書き綴られている。

この本のなかには週刊平凡という名前が何遍か登場する。いちいち細かなところまでは説明しないが、週刊平凡が彼がヤングレディで仕事をしていた時代の芸能情報のトップメーカーだったことがわかる特ダネ合戦の話や雪村いずみに告訴され、警察に逮捕され留置場に入れられた週刊平凡の記者の話などが書き綴られている。この「留置場に入れられた週刊平凡の記者」というのは、当時、副編集長だった浜崎廣のことで、余談になるが、この人ものちに週刊平凡の編集長を務めたあと(わたしは週刊平凡の特集記者時代、ほとんどこの人と新堀安一さんの宰領で働いた)、芸能雑誌局の局長(総括責任者)になり、芸能雑誌二誌を廃刊にして退職した人である。のちに「雑誌の死に方」という本を書いたが、この人もたしか肺がんで亡くなられた。彼が亡くなったあと、奥さんと電話で話をしたのだが「浜崎はよく頑張ったと思います。偉かったと思います」といっていた。定年退職後、大学の教壇に立っていて、亡くなる前に大学で担当していたマスコミ・雑誌論の講義ノートのコピーをわたしにくれた。奥さんは「人生に悔いはないと思います」と言っていたが、わたしは無念の人生を過ごした人というふうに思えてしょうがない。梨元の本のなかには、浜崎さんが逮捕・拘留されたときの一部始終がかなり詳しく書き綴られている。

話を梨元勝に戻すが、この人は本当に人なつこい人だった。誰とでも仲良くなろうとし、善良さを表看板にして、「恐縮です」といいながら、基本的に逃げ回る取材対象に向かってかなり強引に突撃していくのである。

重ねて書く形になるが、わたしが雑誌の編集記者として芸能のスキャンダリズムに関わって仕事したのは、1976年の週刊平凡への配属から1982年のマガジンハウスの社名変更、同時期の新ビルの完成・移転、芸能雑誌総局の担当役員だった斎藤茂氏の退社、という一連の動きのなかで、平凡パンチに異動して、木滑良久と仕事し始めるまでの七年間のことなのだが、このころは本当に、山口百恵の結婚引退、キャンディーズの解散などの大ニュースのほかに、克美しげるが起こした殺人事件とか、美空ひばりと山口組の話とか、石原裕次郎の慶応病院への入院騒動とか、芸能界が騒然とした事件を連発し、芸能が社会の主役であるような時代だった。

 わたしはトップニュースの担当の取材記者ではなく、二折りの6ページとか8ページくらいある長尺記事の人間取材ものの担当者だったから始終梨元さんと顔を合わせているというようなことではなかったが、当然のことだが、わたしもテレビで顔が売れ始めた彼から一口コメントをもらったりしているうちに、仲よしになっていって、ときどき自宅に電話してくるようになった。細かな用件まではっきり覚えていないが、朝早い時間に電話してきて、「アッ、シオザワさん? 梨元です、恐縮です、今週の週刊平凡の特集のトップはなにやるンですか」とか、関根恵子が恋人だった某作家と行方不明になったときには「アッ、シオザワさん? 梨元です、女優の関根恵子ですが、いま、どこにいると思いますか」などと探りを入れたりしてくるのである。「今日の***の記者会見、行きます?」とか聞かれることもあった。

芸能スキャンダルというのは、芸能人本人は出来るだけ知られたくないと思っていることが多く、わたしには言葉は悪いが、どこかに人の排泄物をつつき回すようないやな感覚があり、面白いのだが、やはり最後まで好きにはなれなかった。取材を深め、その人の人間的な心の有り様を知ることが出来ると、これで原稿が書けるとおもってホッとした。梨元は頭から芸能のスキャンダル報道の価値を信じていて、いつもうらやましいくらい元気だった。それはこちらは社員で、ダメでもなんでも給料はもらえるが、フリーランスは出来高払いだから、そういうわけにはいかない、元気に働かないと金にならない。そういう台所事情もあったと思う。芸能取材の第一戦でずっと戦いつづけるためには、本質的に楽天的であるとか、ものごとをあまり深くまで考えないとか、そういう性向の気質の人間である方がうまくいくのである。このことで相手が傷つくなんてことを考え始めたら芸能スキャンダルの取材なんか、ヘビーで出来なくなってしまう。

今世紀に入ってからの芸能ジャーナリズムは基本的に「商品化した人間の個人情報の暴露」という、個人情報保護法と対立するところで取材活動するという、まさにホットプレイス的なところにある報道である。梨元も個人情報保護法が成立し、人間の情報が管理され芸能レポーターたちの仕事総体が減っていくなかで亡くなったのだった。

話を週刊平凡時代の特集取材に戻すが、わたしもいろいろな経験をしている。パンダが死んだときは一日に上野動物園を何度も、担当の医者が三時間おきくらいに記者会見を開いたのだが、そのたびに往復して、たかがパンダに振り回されてと思って、忌々しかった。バーブ佐竹が愛人を作って離婚したときには、両方の弁護士に「向こうは本人に取材させてくれましたよ。いまのままじゃ向こうの言い分だけが記事になりますよ」とうそをついて、当事者本人たち両方を取材した。いやがっていたのをむりやり記事にした記憶もある。アン・ルイスと桑名正博が離婚したときには、赤坂の二人が住んでいたマンションの前で真夜中まで張り込み取材をしていたこともある。そういうとき、わたしはどうしても自分の手が汚れるような感じがして仕方なかった。

例えば、いやがられながら取材した実例を挙げると、昔、中条きよしという歌手が初めてのヒット曲だと思うが「うそ」という歌をヒットさせて一躍人気者になったことがあった。聞くと、歌手デビューした前後で彼と離婚した女性がいるという。それで、その人の居場所を調べたら、福島県の会津若松のスナックにいる、ということがわかり、わたしはひとりでカメラとインタビュー録音用のカセットテープレコーダーを持って、会津若松まで訪ねていった。

その人は田舎のスナックにはもったいない、清楚な印象のきれいな人だった。わたしが東京からわざわざ訪ねてきて驚いたようだったけれど、そもそも人に会いたくなくてここまで逃げて来たのを、わたしがしつこく追いかけてきたのである。取材を拒否されてもしかたなかった。それでも、遠くから来てくれたということがあったのか、無碍にするわけにもいかないと思ったのか、歌手デビューを成功させるために、独身というフレコミにして、中条と愛し合い、子どもも作りながら別れた経緯を涙を流しながら話してくれた。男の子をひとりで育てるのだといっていた。わたしは自分の取材を残酷だと思ったし、そっとしておいてあげればよかったとも思ったが、そのことも、このことも記事にしなければ誰にもわかってもらえないことだった。これはスキャンダルだったが、内実は人間的な悲劇だった。どの出来事もくだらないと思ってしまうようなスキャンダルでもきめ細かく取材すれば、人間的なドラマになっていくのである。

 スキャンダル報道にはそういう人間性が大量に含まれているのだ。

 わたしはやはり、誰かが離婚しそうだとか、不倫しているとか、そういう話の取材はあまり好きではなく、名古屋の女子大生戸谷小百合さん殺人事件とか、嵯峨美智子失踪事件とか、大貫さんが1億円拾った話とか、亡くなられた直後に起こった女優の田中絹代さんの自宅の売却問題とか、話題になってはいるが、話としてピンク系統ではない話題が好きだった。どうして好きだったかというと、そういう話の方が当事者から人間が生きていくことの本質にかかわる話をしてもらえることが多いからだった。

芸能週刊誌はやがて、昭和の終焉と共に姿を消した。テレビの芸能レポートも、昔、梨元がやったように、取材対象にアポなしで突撃していくような取材はなくなってしまった。これは個人情報保護法の影響もあるだろうと思う。

マツコ・デラックスが芸能レポーターの時代は梨元さんが死んだことで終わった、という名言を吐いているが、わたしも似たようなことを感じている。

いまは、昔、梨元のそばに貧相な格好をしてアシスタントのように張りついていた井上公造が、昔と違ってこぎれいな服を着てテレビに出てきて、スタジオでゴシップをスキャンダルのような顔をしてしゃべっているが、とてもじゃないけど、昔の梨元のように芸能最前線で表現の自由を守るためだったら、どんなくだらない取材でもやるんだというような迫力はない。テレビでのこういう報道もそうだが、いまは雑誌も持っている取材力自体が落ちてきていて、取材の現場も大変だと思う。週刊文春などは、突然、スキャンダル報道の持っている強いエネルギーに気が付いた、みたいなところがあり、大活躍だが、そういうのを読むたびに、がんばっているなと思う。これはしかし、当事者はそういう記事が持っている、ある種のニヒリズムと戦わねばならないから精神的に大変だろうなと思う。週刊誌の特集記者というのは、昔はトップ屋と呼ばれていたのだが、風当たりの強さは尋常ではなく、図太い神経か強固な理論武装が必要である。わたしは経験者だからわかる。いずれにしても、問題は取材というか記事の深みで、ただ、誰と誰が不倫しているという話ではウンコを割り箸でつついているだけのようなことで面白さに膨らみがない。それをさらに突っ込んで、その不倫の当事者が、自分たちの恋愛が不倫であることをどう考えているかとか、どうしてその人を愛してしまったのかという、その人の愛の状況とか、そういうところをきちんと取材しなければ。記事として、完結せず、ただ面白がっているだけじゃないかといわれる。ことの本質はただ面白がっているだけという側面もありえると思うが、記事としての本当の存在価値はやっぱりその話の根の部分をチャンと取材できているかどうか、という話なのである。

これは芸能に限ったことではないのかも知れないが、取材をして、原稿にまとめるプロセスのなかで、取材した本人も、その話の持っている人間的な真実にふれて、現実を見る目が変わったり、人間的に成長していくということがあると思う。それはなぜそんなことを書くかというと、わたし自身がそうだったと思っているからだ。

人間が生きることの本質とはなにか。人間を対象にした取材をするとき、わたしはいつもそのことを考えながらいた。人生とはなにか、女とはなにか、死とはなにか、そういう答がいくつもあり、その答がどれも正しく思えたり、間違っているように見えたりする問題に関わること自体が、人間的に成長していく、ということなのではないかと思う。

自分がそういう経験をくり返すなかで、ジャーナリストとしてどう成長していったか、それも自分では面白い話なのではないかと思っているのだが、正真のところはわからない。その問題については原稿をあらためよう。(つづく。)