※これはたぶん、日本で一番複雑な構成の、低俗で高尚、平易で難解な小説です。

この小説は400字詰め原稿用紙で約2000枚ほどあります。これはそのうちのほんの一部分です。

表現の一部が、アメブロのコードに抵触するとのことで、ハードコア部分をリライトしています。

原文はいずれ書籍化されたときにお読みください。

第六章 もう逢えないかも知れない04

 

明智小太郎と櫻井詢子が坂道を上って山手寮に戻ってくると、隣の診療所から看護婦が二人で出てくるところに鉢合わせした。梨田サチである。「会長をお風呂に入れて差し上げようと思ったんですけど」「あっ、そうね。ごめんなさい、留守にして。どうゾ、お願いします」リビングに戻った順子は桐院に「桐院さん、にぎりの上を五人分、新寿司に電話して下さる?」と出前の電話を頼んで、高杉を入浴させるために梨田サチといっしょに二階へ上がっていった。彼はモノの勢いで自分でいい出したこととはいいながら、こんなところで料理をすることになろうとはと思いつつ、台所に戻った。そして、一人暮らしで身につけた料理の技術を駆使して、スープの素を鍋に溶いて温め、チョンチョンとチャウダースープを作りあげた。そこにあったフランスパンを切って、ひと切れ毎に表面に少しだけ塩を混ぜたバターを塗って、トースターで焼き上げ、細かく刻んだパセリを乗せ、スープのそばに置くようにした。それなりに美味しそうな料理が出来上がった。料理もやってみるとなかなか面白い。明智も昔、一時、料理に徹底的にこだわってみたことがあった。それは彼が制作局の主任ディレクターをはずれた頃のことだから、昭和64年、いや平成元年、10年前になる。夕方6時には退社できる職場に移れて、最初に取り組んだのが、これまで見向きもしなかった家庭に戻ることだった。夕方の買い物をして帰ってやるところから、自然と「それじゃあ、今晩は僕がなにかを作ってあげるよ」ということになった。麗子は笑いながら「あらまあ、どうしましょう」といい、夕飯の食事の支度から開放されて嬉しそうだった。それがきっかけで、料理を作ることに熱中した時期があったのだ。料理はやってみると、料理のなかに潜在している技術の体系を見つけだすのが面白くなって、取り付かれたように台所仕事に取り組んだのだ。やってみてわかったことだが、料理は次の三つの要素の組み合わせだった。

 

  [1]素材の選出。穀物、野菜、肉、魚などの素材を選び、組み合わせる作業

  [2]加熱。生冷焼煮茹蒸揚炊など熱と素材の関係を決定する。

  [3]加味。甘辛酸塩などの味を決定する。

 

これを入れコにしたり並べたりしていく。たぶん、真剣にやればこれを図式化し、体系化することが出来るはずだが、彼もそこまではやらなかった。しかし、料理も文化としての明確な構造性を持っていた。これらの基本になる作業、これに随伴して素材をどう包丁で切り刻むか。人間の口が食べやすい、最も適当な形を探す。そして、素材同士をどう組み合わせるか。加熱、加味をどう組み合わせるか。この手順そのものも入れコになる形で組み合わせていくのだ。そして、どういう皿にどう盛るか、そのことを決定する。この試行錯誤のなかでたどり着いた結論は、料理の要諦は塩だということだった。あれこれやっても、最後の塩加減で口に合うか合わないかが決まってしまう。そしてその事に気がついて、それであらためて、彼は人生の塩について考え始めたのだった。なにが一番大切なものなのか、と。彼はそうやって自分だけの料理を模索していくうちに、自分では幻の傑作だと思っているアケチ・クッキング・オリジナルの料理の数々、

 

  [モツァレラチーズとアンチョビ入り菜っぱの味噌汁]

  [細切りピーマンとアラスカサーモンの唐辛子炒め納豆マヨネーズかけ]、

  [イカと椎茸とトウモロコシの梅酢味にんにくオリーブオイル和え]、

  [マグロの刺身チョコレートシロップかけ]、

  [中国緑茶だしのきざみネギとめざしうどん]

 

など、かって家族だった者たちがいまだに忘れられないでいる珍味な料理を生み出していったのだ。そうやって彼が勝手気ままに作り上げる料理には採点者がいた。これは50点、これは70点、これはけっこう美味しいから85点などと点数をつけて、試食係をやってくれたのは麗子や娘たちだった。なかには「あなた、どういうつもりでこれ、作ったの? イヤがらせ?」などといわれる料理もあった。[いちごジャムとメンタイコのスパゲッティ]とか甘く煮付けた油揚げのなかに納豆が入っている[納豆おいなりさん]のような自分しか食べられない作品も幾つかあった。しかし、概ねは「あなた、料理も天才ね」と誉めてくれたのだった。クラムチャウダースープを作り上げてカップによそってダイニングのテーブルに持っていった。桐院が待ちかまえていてさっそく一口味見して「これはなかなか美味しい。レトルト食品とは思えません。アケチさんはこういうことにかけてはすごい才能の持ち主ですね。天才です」そういって、激賞してくれた。そんな晩餐を間近に控えたにぎやかなリビングにすっと姿を現したのが、桐院の上司、京浜興業という会社の社長でもあるという柿谷だった。「あ、お疲れさまです」と、柿谷を見て桐院がいった。背の高い、いかにも切れ者そうな、目つきの鋭いやせた男が入ってきた。その男が入ってきた時にまず、明智が感じたのは彼の威圧的なオーラだった。そして、明智に対しての激しい敵意だった。なにが気にくわないのかわからなかったが、男が彼を拒む意志を心のなかに強く持っているのをカチンと感じた。男はそれこそ痩せ型筋肉質、トレーニングをやり続けた芥川龍之介みたいなパワフルな神経質、という感じがした。心のなかは用心深くシールドされていて見られなかった。

柿谷は明智がそこにたっているのを認めると不機嫌そうな様子を隠さず、軽く会釈しただけでなにもいわず、そのまま桐院を連れてリビングの奥にある事務スペース、たぶんそこにオフィスがあるのだろう、小部屋に姿を消した。その部屋は彼がいる場所からは距離も遠く、障壁もいくつかあって、その部屋のなかでなにが話されているかはわからなかった。なんとなく伝わってくる、もうろうとしたイメージでは桐院と柿谷がなにかをいい争っているかんじだった。柿谷は霧韻に手伝いに来てもらう新しいスタッフは「容姿端麗の中年女を雇え」という指示を出しておいたのだ。それにもかかわらず、世話役に傭われたのは中年の、というかヨレヨレの男、どこの馬の骨ともわからぬ男だった。それは高杉と順子の意志だった。しかし、明智が高杉や順子の知り合いとはいえ、自分にとっては正体不明の男が迷い込んできたのだから、気にくわなかったのだろう。明智は柿谷の挙措と心理になんとない不純を感じた。寿司の出前が来て、隣の診療所から夕飯の病人食が来て、すごい組み合わせの夕御飯の準備がテーブルの上に整った。たくさん作ったつもりのスープはみんなで分けるとカップ一杯ずつというこじんまりしたものになってしまった。小林晴美が二階から降りてきて「アケチさん、会長がお呼びですよ、御飯、いっしょに食べようって」と呼んだ。明智は、「それじゃあ、僕は今後の参考にもなるし、高杉さんのそばで病人用の食事をいただくことにしましょう」そういって配膳された病人食を持って階段を上がっていった。晴美が出前のお寿司と明智の作ったスープを載せたお盆をもってあとに続いた。高杉の病室にいくと、風呂からあがった高杉は女たち4人に囲まれて上機嫌でいた。「あ、来てくれたね。まったく、女たちがうるさい。僕もそんなに女が好きというはずじゃなかったんだが、年とって病気になるとみっともない話だが、女の身体がそばにあるっていうだけで、元気が出てくるようになってしまった。それが人間の本質なんだろうね」明智が、高杉の話に相槌をうちながら「食事、できたんですけどすぐ食べますか、どうしますか」と高杉に訊くともなく順子に尋ねるともなくそういう。順子が高杉に尋ねかえした。「すぐお食事なさる?」「お腹が減った」と老人は答えた。そして、このときの高杉は良くしゃべった。しゃべっている最中にせき込むこともなかった。明智は高杉のしゃべる声だけ聞いているかぎりでは、彼がどうしても末期の肺ガン患者で死期が目前に迫っている男のようにはに思えなかった。しかし、体重は50キロを切っていた。たぶん抗ガン剤の副作用もあるのだろう。頭の髪の毛もほとんど抜けてしまっていた。それでも、高杉はそういうことを気にしている様子もなく、上機嫌にしていて、ベッドに楽しそうに横たわっていた。食事をしながら、話はまたしても、高杉の昔語りになっていった。高杉貞顕は戦争が終わったとき、一攫千金のチャンスを掴んだ。彼は終戦を広島県の安芸の庄という小さな島で中尉の位官で迎えたが、この時、陸軍の輜重隊の主計官だった。機関銃を装備して一千馬力という巨大な力量のエンジンをつけた高速艇を乗り回して、軍需品の調達係の責任者を勤めていたのだ。「戦争が終わった時、僕たちは広島にいた。突然、陸軍が無くなってしまってね。それで軍の倉庫に膨大な物資が残ったんだよ。もちろん、それは輜重隊のみんなが知ってることだったが、その物資をごまかすのはわけなかった。書類なんか戦争が終わったとたんに焼いちゃったからね。何がどのくらいあるのか、誰にも分からなくなっていた。それで復員するっていう兵隊たちに、まあ自分でもてるだけの物を持たせて帰らせたんだ。そして最後に士官だけが残った。僕は塩の調達係でね、その頃の塩は本当に貴重品だったんだよ。統制品で闇値はかなりいい値段だった。書類は焼いてしまったが、陸軍用に作って支給されるはずだった膨大な量の塩が瀬戸内海の離島の小さな島の倉庫にいっぱい、保管されていたんだよ。倉庫っていっても、島に駐屯した兵隊たちが防空壕替わりに掘った巨大な広さの洞窟だった。

何百トンていう量だった。まわりの島でできあがった塩をそこに集めて、洞窟に運び込んで仕舞っておいたんだ。そしてそれは、部下のみんながひとりずつ除隊していって、最後は僕ひとりの秘密になった。奥まで何キロって深さの巨大な洞窟の倉庫に一杯の塩だよ。誰の物でもない。その塩が誰の物でもないということも僕以外は知らない」「おもしろい、ワクワクするような話ですね」「僕たち士官も武装解除されて流れ解散のように除隊した。僕はその島の防空壕の入口をコンクリートで塗り固めて塞いで、入り口にすぐに大きくなる葛のような蔓草を植えて、2、3ヶ月したら蔓草で入り口がふさがってしまうようにして、それから横浜に戻った。そして、元町のすっかり焼け出された街で途方に暮れた。僕が好きだったロシアの娘なんかどこかにいってしまっていなくなっていた。横浜はすっかりアメリカ軍と中国人たちの町になっていたよ。そして、桜木町の闇市で食堂をやっていたサンパウロの親父さんを見つけだした。わけを話してね、いっしょに働かせてもらうことにした。高杉っていうのは、サンパウロの親父さんの名前なんだ。僕は、復員して親父さんといっしょに商売を初めて、一人娘を嫁さんにもらって、高杉の養子になったんだ。何ヶ月後かに、僕は親父さんにこういうわけだからと事情を話して港で古い小さな貨物船を借りた。そして、親父さんの昔の船乗り仲間を集めて、瀬戸内海のその小島まで隠匿してある塩を取りに帰った。貨物船一杯だよ、闇の塩。僕はこの時、悪の論理という言葉をあれほど突き詰めて考えたことはなかったよ。これは正しいことではない。しかし、生きていくためにこれを完璧にやらねばならない。その時代に善だとされている考え方以外の選択がすべて悪なのだとしたら、僕は悪の論理のなかで生きるより仕方ないだろうと思ったよ。しかし、その時の権力が鼓舞する善の基準なんて最も表層的な歴史の部品に過ぎない。それは戦争体験からも分かっていたからね。そして、現実に塩は最も厳重な統制のなかにおかれて、国家がそこから利益を上げていくための最も大切なモノの一つだった。ぼくらは何度も官憲の目をくぐって危ない橋を渡って、塩をあちこちに運んだよ。ピストルを懐に入れてね。あれが僕の一番殺伐とした時代だった。まるでいまの覚醒剤取り引きや中国人の密航のようにね。塩は統制価格でいうと、戦争が終わった翌年、昭和21年に1キロ1円だったのが、翌年には5円、昭和23年には20円になった。僕たちは宝石の山をかかえていたようなものだった。船で横浜に持ち込んで、闇で目立たないように売りさばいて、売り切れるとまた、船を雇って塩を取りにいく。そうやって貯めた金で、ぼくらは喫茶店のサンパウロをもう一度始めたんだ。最初の店を元町に出して、それから、順番に桜木町にリスボン、伊勢佐木町にマルセイユ、本牧にニューヨーク、横浜駅前にシドニーと店をふやしていった」「小説『宝島』ですね。港毎にお気に入りの店がある」「本当にそうかも知れない。僕たちというか僕に運が良かったのは、サンパウロの親父さんが連れてきた昔の船乗り仲間が、みんな年寄りで家族もほとんどなくせいぜいが女房がいたくらいのことだったことだ。みんな、面白いことが好きなワリに欲がなくてね。毎日楽しく暮らしていければいいやという人たちばかりだったんだ。最初のサンパウロ・チェーンはそうやって始まったんだ」「ずいぶん大勢の人たちに援助をなさったってお聞きしました」「ウン、僕は戦争が終わったとき、もう、政府のいうことややること、それに一般的な世論というのを信じるのを止めようと思った。僕は戦争から生きて帰ったけど、僕の仲間はみんな死んだよ。戦争に勝てるとは思っていなかったけどね。軍人だったときに馴染みにしていた広島の女たちもみんな死んだ。なにしろそれまで敗北のイメージがなかったからね」「原子爆弾ですね」「うむ、それはすさまじいものだったよ。原爆が落ちたとき、僕は安芸の庄の思潮隊の本部にいた。キノコ雲がすごかったよ。僕は子供の頃、自分が貧しくて充分な教育を受けさせてもらえなかったでしょう。そのことの意味をさんざん考えたんだ。本当は陸軍の士官の試験というのは中学校をちゃんと卒業していないと受けられないんだ。それを僕をかわいがってくれた連隊長がいたんだけれど、服部大佐という人なんだけれど、その人の当番兵になってね。その人が『お前、士官の試験を受けたいか』と聞くから『ハイ』といったら、小学校しか出ていない僕のために、どこかで飯田中学卒業という卒業証書を作ってきてくれた。『俺の部下でいれば絶対にばれないから心配するな』といって昇任試験を受けさせてくれた。僕が小学校もちゃんと行っていないわりにそういう筆記試験とかで優秀だったからかも知れないけれど、僕にとっては陸軍だってけっこう住み心地がよかった。結局、人生って出会う人間なんだよ。そういう経験があって、僕もみんなに勉強させてあげたいということを強く考えたんだ。人間は勉強さえすれば変わっていけるんだよ。僕は、結局、偶然手に入れた自分の財宝をどう人にばらまくのか、自分の欲望を満たすだけに使うのか、それとも社会の役に立つ方法はなにかあるだろうか、そういうことも考えた。それで戦災で焼け出された少年とか、親に捨てられて行き場のない子供とか、集めて店を手伝ってもらうようになったんだ。いろんなのがいたけどね。お金もって逃げちゃったヤツとか。女が好きで好きでしょうがなくて必ずいっしょに働いている女に手を出そうとするヤツとか、本当に人間にはいろいろなヤツがいるからね」「せっぱ詰まって暮らしていると人間性がむき出しになりますからね」「本当にそうだね。僕にとっては終戦直後こそ戦争ですべてを失い、途方に暮れた時代だった。信頼してきた国家に裏切られ、欲望をむき出しにして自分のことしか考えない人間たちに裏切りつづけられた絶望の時代だったのだよ。自分以外に信じられるモノはなく、愛するモーゼルと一緒に巷間に命をさらして生きた」「戦後の横浜は相当に荒っぽい街だったそうですね」「南京街があって港の沖仲士たちがいて、仕事があったからね、波止場には。毎日、男たちのあいだで血生臭い風が吹き荒れていたよ。そして男たちがたむろしていれば決まったように女たちが集まってきた」「金と力だけが信じられるモノだった時代ですね」「そうだね。それで僕はその荒廃した焼け跡の世界を見ているうちに、人間が人生を狂わせる原因というのはそう数がないと思い始めてね。なによりも自分が信じられる人間の数を増やそうと思った。そのために、子供たちに教育を受けさせようと思った。若いヤツに自分のことを自分で考える、そういう力を身につけさせなければダメだと思った。それで自分のまわりのやり直しのききそうなヤツ全部にとにかくもう一度、学校に行けと奨めた。それが奨学金制度の始まりですよ」「高杉さんはどこで勉強されたんですか」「僕は本当に、誰も先生のいない、独学の人間なんですよ。カントの『純粋理性批判』だって、なにが書いてあるのか、誰も教えてくれる人がいなくても、国語辞典片手に10年間、何十回、何百回とくり返して読めば、カントのいっていることが正確に理解できたかどうかは別にしてそれなりになにかを考え始めるものだよ。それが人間なんだ。例えばね、本多秋五は『物語戦後文学史』のなかで、こういうことをいっているね。それは花田清輝の『復興期の精神』についての条りだよ。ちょっと、そこの本箱のなかから、本を取ってくれたまえ」高杉は手にしたその本のなかの194ページを指さしたそこには、こんな一節があった。

 

精魂をかたむけて本音を吐いている。

と同時に、あらゆるレトリックの秘術をつくして煙幕をはりめぐらし、極力自己の正体を隠蔽している。おそらくここで花田清輝がもっとも肝胆をくだいたのは、もはや私の正体などというものは存在しない。

しかし、私の言葉は言々句々、私の本音ならぬはない、という境地に到達し、それをわがものとして体得することであった。

「すでに魂は関係それ自身になり、肉体は物それ自身になり、心臓は犬にくれてやった私ではないか。」

「不幸であればこそ理知は強靭にもなる…絶望だけが我々を論理的にする」

そこに敵の性質を観察し、自己の力の使用法を訓練し…

 

「[私の正体などというものは存在しない。ただ、絶望だけが我々を論理的にする]…、まったく僕のそのころの精神をこれほど的確に表現した言葉はなかった。生きていくために、理想を貫くために自分でも何度かむ荒事にかかわって闘った。人から《高杉は凶暴でなにをするかわからないから手出ししない方がいい》といわれた。地元のやくざたちからもおそれられたよ。当時、ちゃんと弾の出るピストルは貴重品だったんだよ。闇に出回っているピストルの多くは使い物にならなくてね、試し撃ちをやるのも命がけだった。それを僕たちは、戦前の日本の一部の陸軍将校だけが使っていたモーゼルという拳銃を40丁くらい、それと弾薬も潤沢にあった。これは僕が敗戦前に広島の輜重隊の本部の倉庫から持ち出して塩といっしょに隠しておいたものだった。ただ拳銃は使い方を間違えると、僕たちもやくざものの仲間入りしちゃうからね。これも塩の貯蔵の話と同様の、僕たちの集団の絶対の秘密だった」終戦後のなにもかものモノの価値が逆転してしまった荒れ果てた世界で、自分だけの秩序の確立をめざした高杉貞顕。混乱した状況のなかで横浜にも三国人や暴力団が台頭し、町を支配して、縄張りを決めて堅気の人々の生活に干渉しようとした。彼らは普通に暮らしている人たちになにかと難癖を付けて、自分たちの思い通りにしようとした。警察も上層部が地元のやくざ、右翼とつながる[庶民の敵]だった。高杉のところには何人かの正義感に燃える命知らずの若者が集まった。血なまぐさい、あの時代だけの、横浜だけの青春物語があった。多くの血が流れた。やくざたちはモーゼルで武装した高杉たちの集団を[高杉の軍隊]、[闇の軍隊]といって恐れた。高杉は軍隊時代から愛用した軍刀を傍らに携え、反権力、反権威を貫いた。右翼でもなく左翼でもなく、やくざでもなく労働組合でもなかった。彼らは余人の力に頼らず、それでもなお、人間の力を信じて、自分たちだけの夢、理想を追い求めようとしたのだった。(第七章 キミたち、キウィ、パパイヤ、マンゴーだね につづく)