『杉村太郎、愛とその死』について、思うところを書いておこうと考えている。
松が開けて印刷所からわたしのところに、
新しく発売する『杉村太郎、愛とその死』が届いた。
※定価1600円(税抜き)上製本 360ページ 河出書房新社より発売。
わたしと杉村太郎がどんな関係だったかについては、
『杉村太郎、愛とその死』の巻頭の6ページに、簡単な説明を付けた。
こういう文章である。
『絶対内定』は1994年1月に、最初はマガジンハウスの書籍出版局から年刊シリーズ本として企画され『絶対内定 95』が創刊された。当時、この本を担当した編集者は雑誌の『ガリバー』の編集長を退任したばかりの塩澤幸登だった。帯の惹句に〝初めての奇跡の就職本〟とあり「この本のワークシートをひとつひとつ丹念に解いていくと、キミはいつの間にか志望企業へのトップ内定さえ夢ではない優秀な人材に変化していくことが出来る」と書かれていた。発売後、本書は衝撃的な反響を呼び、短期間のあいだに1万8千部あまりを売り尽くし、杉村太郎と我究館の将来を決定的なものにした。その後、2001年の塩澤のマガジンハウス退社にともない『絶対内定』はダイヤモンド社に移籍し、現在もロングセラーをつづけている。版元の変更は杉村の意志だったと聞いている。
わたしと杉村太郎は、わたしが会社を辞めたあと、いろいろな経緯があって、長く会っていなかった。
一番最後に出会ったのは二〇〇八年の夏、亡くなる三年前。いまからもう九年前になる。これは偶然の出会いだった。千駄谷の河出書房新社がある通りの並びのラーメン屋にいたら、杉村が隣にやってきた。
その時、彼から自分は癌なのだと告白された。
ラーメン屋で立ち話するような話ではなく、なんとなく気まずい思いで別れたのだが、そのあと、わたしは彼に手紙を書き送った。故人の承諾を得ようもないが、こんな文面である。データは無くなってしまったが、文面が残っていたので、それをスキャンして読んでいただこう。
以上がそのときに書いた手紙の全文である。
若いころはそんなことをあまり考えたこともなかったが、
年をとってわたし自身も含めて、わたしの周囲で人間の死は日常的なことになりつつある。
百瀬博教も死んだ。山際淳司も死んだ。生和寛も木村大三郎も死んだ。
こうやって死者の名前を羅列することが冒涜であるかのような気分になる。
いまや、知り合いのうちの誰がいつ死んでもおかしくない。
わたしたちはそういう世代を生きている。
杉村からは、この手紙への返事はなかった。
ただ、奥さんの貴子さんの話では、わたしの手紙を受け取ったあと、
ある日突然、大量の哲学書を買ってきて、それを読み始めたという。
杉村太郎はよく戦ったとおもう。毀誉褒貶は人間の宿命であり、
人生を形よく作りあげるのは本当にむずかしい。
死は当たり前のことだが、杉村に死なれたあと、いまでも長く引きずる複雑な思いがある。
人間はどうやってもさまざまの出来事を忘れながら生きていくものだが、
杉村を二十一世紀の日本の社会の忘却装置の中に放置して、
みんなに忘れ去られるままにしておきたくない、と思った。
今度の本は、そういうところから作ろうと思った本だ。
Fin.