「遣唐使」と山上憶良 | 雪太郎の「万葉集」

雪太郎の「万葉集」

私なりの「万葉集」解釈
カレンダー写真は「鴻上 修」氏撮影

 いざ子ども早く日本(やまと)へ 大伴の御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ

  巻1 63 山上憶良

 さあみんな、早く大和へ帰ろう。大伴の御津の浜松も「まつ」の名のごとく、待ちわびているだろう

 「いざ子ども」は目下の者への呼びかけ。「御津」は難波(現在の大阪)の港で「遣唐使船」はここから出向しました。この地域一帯は「大伴」氏の領地でした。

 当時、唐の都「長安」はインドや東ヨーロッパの文化が集まる最先端の国際都市でした。日本から(絹や水晶を献上する)「朝貢」の形で使節団が派遣され2年間、技術や文化を学んで帰国しました。この歌は帰国を前にして開かれた宴会で詠まれたものです。山上憶良は身分は低かったのですが大宝元年(701年)41歳で「第八次遣唐使」の少録に選ばれ、702年に唐に渡りました。この実績により出世への道が開かれ、726年に「筑前守」にまで出世することができました。そこで「大宰府帥」の大伴家持等と「築紫歌壇」で共に活動することになります。

 当時の船は現在と比較すると大きさも小さく技術的にも劣っており、安全性は高くありませんでした。ある意味「命懸け」の航行だったと考えられます。航海の不安を打ち消す意味で「御津の土地の精霊の加護」を願って詠んだ歌でもありました。

律宗」の開祖で「唐招提寺」を開いた僧「鑑真」について調べてみると、いかに「海を渡る」ことが困難だったかがわかります。

 奈良には(自分で出家を宣言した)「私度僧」が多かったので、憂えた聖武天皇が(僧侶に位を与える)「伝戒師」を求めて当時(戒律の僧)として高名だった「鑑真」を唐から呼ぼうと「栄叡」と「普照」を派遣しました。

 鑑真は「聖武天皇」の要請を受け、743年に「戒律」を教えるため弟子21人を連れて日本に来ようとしました。しかし、「暴風」などによる「漂流」だけでなく「政治的な」理由などで5回失敗しました。751年には渡海の途中の労苦などで「両眼を失明」するという事態に遭遇しましたが諦めることなく挑戦し10年後の753年ようやく「屋久島」に来ることに成功しました。当時は、暴風などによって「沈船」「座礁」「漂流」する危険が高かったことがわかりました。