壁掛けのカレンダー、月が新しくなり前月のページを切り取って壁に戻す時、この時期になるとすっかり軽くなって、12月が近づいていることを意識します。時間が経つのはホントに早いですね。



さて、米沢市内から南下、西吾妻スカイバレーを登って行くと、山形と福島の県境を越えると桧原湖を見渡せるようになり「東鉢山七曲り」に入ります。


文字通りヘアピンが連続する(山形側からは)急な下りで、180°まわり込むカーブを繰り返すコースは、スロットルを踏み込める訳でなく、オートバイで走ったとしてもあまり楽しめそうにありません 囧rz 



七曲りを過ぎると、ほど良い角度のコーナーが次々あらわれて、R459まで「Fun to Drive」の区間に変わりました (^_^)b 


道路に張り出した樹々の枝葉をくぐるタイトなワインディングは、四輪でも楽しめます。桧原湖が間近に望めて空が広がって良い眺めです。


かぶとむし号はオートマチックですが、パドルシフトによる7段変速機を装備しているので、慣れてきたらギアチェンジしながらコーナーを走るのもイイですね。



裏磐梯観光協会の建物は、山のロッジを模した三角屋根がなかなか洒落ています。


五色沼を散策したかったので、周辺地図をもらってルートを健闘します。



さぁ歩こうかと遊歩道の入り口に立つと「クマ出没注意」の表示があるではありませんか 囧rz 


最近は山でも森があると必ず見かけるこの標識、このあたりでは実際に遭遇することは少ないと思いますけれど、旅先で鉢合わせするのも「いかがなものか」と思い直し、五色沼散策は見合わせました。


童謡のように「スタコラサッサのサ〜♪」と逃げる訳にいきませんもんね www 



そろそろ夏の陽も傾き始める時間帯になりましたので、次のスポットである「野口英世記念館」へ、そのまま向かいます。



仕事で会津若松へ何度も訪れていた時期があり、磐越西線で猪苗代の駅に停車すると、記念館の案内が必ず目に入りましたが、時間が限られていて記念館へはとうとう行けず仕舞いでした。



野口英世博士については、子供向けの偉人伝記本で読んでいますし、マチサガには北里大学病院がありますので、その繋がりで連想することもあります。


記念館は博士の生家があったその場所にあって、生家そのものも維持されています。



左手に大火傷を負った囲炉裏は、明治11年(1878年)当時のまま保存されているそうです。


小さく見える赤ん坊は博士の姿、寝座から這い出してまさに囲炉裏端へ向かっています。



SF作家の星新一さんは、福島出身の父、星一さんが製薬事業を起こすまでの前半生を描いた「明治・父・アメリカ」に、野口英世博士と出会い帰郷を支援するエピソードを紹介しています。


ニューヨークで日本人向けの新聞を発刊する仕事に携わっていた星一さんが、病原菌の研究者として欧米で名を馳せ、米国に滞在していた同郷の野口博士に、郷里へ錦を飾り生母と再開する機会を提供した形です。



磐梯山はアタマに少し雲を被っています。空模様がついに安定しない一日でした。


この日の泊まりは80年代の家屋を流用したゲストハウス、宿主さんからあらかじめ(宿のお風呂は古いので)近くの観光ホテルの日帰り温泉を利用するよう勧められていたので、そちらへまわって行くことにします。




[カバー写真] 


先週、勤め先の駅前にある「粉もん屋」へ、久しぶりに仕事帰りに立ち寄りました。


普段は自分で焼くのも「楽しみのうち」ですけれど、この日は大将にお任せ、ネギ焼きはイイ具合の焼き加減、さすがですね。ビールが進みます♪


締めにお願いした広島焼きは、かなりのボリュームで、残念ながら食べきれませんでした σ(^_^;) 



(傍記) 

三連休の初日、栃木県の朝日岳で60代から70代後半の4人が遭難する事故がありました。


報道によると、正午前の一時間ほどの間に天候が急変、立って歩けないほどの強風と気温の低下に見舞われ、低体温症で動けなくなったようです。


2000メートル級の山ですから、少し早い紅葉狩りを兼ねた登山だったのでしょうか。


この日ゆきたますはWハチに乗って、近くの低山まで「脚ならし」のハイキングへ出かけていまして、帰ってから日経の夕刊で記事を読み驚きました。


遭難された時刻から見て、早朝に登り始め日暮れまで十分間があるうちに下山するプランだったと思われます。


関東圏は広域に快晴で暖かい予報だったので、予期せぬ急な天候の変化だったのでしょう。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。