小布施町は人口1万1千人ほど、中心部は1キロ四方に収まるという規模感で、県庁所在地の長野まで電車で30分あまり、温泉地の湯田中まで40分足らずで行き来できます。



そういう意味では、しばらく滞在して、一日の内に何時間かは仕事に割り当て、後はのんびりとスケジュールに縛られない時間を楽しむ、そんなワーケーション・スタイルがこの町に合っているかも知れませんね。



町のシンボルと言える「北斎館」のお向かい、小布施堂の脇から伸びる「栗の小径」を進みます。


大人ふたりがようやくすれ違えるぐらいの幅、昔の生活道はこのぐらいの寸法感だったのでしょうね。



奥まったところに「高井鴻山」の記念館があり、高井家の邸宅を記念館として公開しています。


こちらは東門で、正門は小布施の町を南北に貫くR403に面しています。



高井家は地元の豪商、酒造りで財を成したそうです。鴻山は幕末の少し前から明治の初め頃に生きた人で、北斎を小布施に招いて数々の作品を残したことで有名です。


間口三十間(54 m)、奥行き八十間(144 m)という広壮な敷地を持っており、高井家の人々やたくさんの使用人が暮らしていました。



鴻山が「翛然楼」と名付け書斎として使っていた建物です。いわゆる「悠然」という言葉に由来しています。


小布施を訪ねた多くの著名人とこちらで面談、時に時勢を議論したそうです。



鴻山は非常に幅広い分野の人たちと交流があり、翛然楼の隣にある文庫蔵に、その関係図が展示されています。


絵師では北斎の他に谷文晁、書家の山岡鉄舟、西洋技術文化の導入者である佐久間象山、陽明学者の大塩平八郎、藩主では土佐の山内容堂や福井の松平春嶽、幕臣では勝海舟、川路聖謨、大久保一翁、小栗忠順など多彩な顔ぶれが並んでいます。


江戸や大坂からはるか離れたこの土地に暮らしていても、世の動きに詳しい、とても聡明な人物だったのでしょうね。



北斎にとって鴻山は「パトロン」の一人にあたる人物だったと思いますが、それでも江戸から小布施まで、何里の道のりがあるのでしょうか。山々を越えてよくぞ歩いたものです (^o^;A 




さて次は、小布施では最も観光客が集まる「北斎館」を訪れます。


この日は「北斎漫画」と言われる、糸よりの冊子がたくさん展示されていました。




有名な「富嶽三十六景 神奈川沖 浪裏」は、どのように刷りを重ねていくか、ひとつひとつの版で説明していまして、彫りの精緻さに驚かされます。



こちらは鴻山が村民の願いを受けて制作を依頼した「東町祭屋台」で、二階建て唐破風屋根の天井には北斎が描いた龍と鳳凰の図がそれぞれ収められています(手前がその拡大模写です)



北斎は鴻山が私財を投じて建造した「上町祭屋台」にも「怒涛図」二面を描いていまして、それが左の「男浪(おなみ)」と右の「女浪(めなみ)」です。


両図の四周の縁絵は、北斎の下絵に鴻山が彩色したと言われているそうです。



陽が翳ってきましたので、そろそろ宿へ戻ってWハチを拭いてやりましょう。直射日光で熱を持った車体も、もう触れる程度に冷えている筈です。




[カバー写真] 


マチサガから小布施までは、新幹線で3時間あまり、特急「あずさ」を利用して5時間弱という距離感です。短くもなく長くもなく、缶ビール片手にちょうど良いでしょう。

冬に鉄道旅で旅情を味わうなら、あずさ号で松本へ出てそこで一泊、翌日に小布施で一泊、三日目に新幹線で帰る、そんなプランが描けそうですね。

長野からは、長鉄の特急「スノーモンキー」にぜひ乗車したいと思います。


(おまけ) 


小布施の地酒「北信流」の棚に、見覚えのあるブルーの瓶がありました。


三角錐をツイストした形は、南足柄の道の駅「金太郎のふるさと」で購入した「四季の箱根」と瓜二つです。



酒詰めの瓶は、酒蔵さんで独自に用意していると思っていたのですけれども、どうやら専業の容器メーカーが別にあって、それを仕入れる訳なんですね。


たしかに数ある銘柄ひとつひとつに、異なるデザインのボトルを用意するのは大変でしょう。


地方区の酒造メーカーにとっては、きっと利便性が高いと思います。