新5,000円札に肖像が採用された津田梅子。6歳で渡米した津田梅子は、18歳で帰国した時にはほとんど日本語を忘れていた、という話を聞いたことがあります。
外国語学習が好きな私は、そんな梅子さんに「そこまで外国語を極められたらいいなあ」ってうらやましさを感じます。
と言いつつ、私も梅子さんのような状況にちらっとだけかする体験をしました。
私が韓国から日本に帰国した時のこと、もちろん日本語を忘れてはいませんでした。でも、日本語を話しているつもりなのに、気づいたら韓国語を話していたということが時々ありました。
例えば、父親が日本語で何か質問してきて、私は日本語で答えているつもりだけれど、実は韓国語を話していたようで、父親がぽかーんとして「何言ってるんや」ってつっこまれたりとか。
津田梅子まではいかないにしても、私の脳は、気づかぬうちに韓国語化してしまっていたのでしょう。
帰国してからだいぶたつ今となっては、そんなことはありませんが、「韓国語で言った方が表現しやすくて楽だわ」感じる言葉があります。
まずは、「정신이 없다」。日本語に直訳すると「精神がない」。
韓国の人はこの「精神がない」をよく使います。日本語を学習している韓国人がよく「昨日は精神がなくて、〇〇でした~」ってよく使っていて、はじめは「うん?」となりましたが、今では「うん、うん分かる」と共感たっぷりで理解できます。
「정신이 없다」(精神がない)は、状況に応じて、文脈に応じて「忙しい」「バタバタしている」とかという日本語に訳すことになります。
시험 준비하느라고 어제는 정말 정신이 없었다.
(試験準備のために、昨日は本当に「精神がなかった」=忙しくて他のことをする余裕がなかった)
서울은 사람이 많아서 정신이 없다.
(ソウルは人が多くて「精神がない」=混雑して、ごちゃごちゃしている)
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오늘은 하루종일 이런저런 전화가 와서 정신이 없었다
(今日は1日中あれこれ電話があって「精神がなかった」=バタバタしていた)
例文からもわかるように、どんな場面でであろうと、どんな文脈であろうと、もう頭の中がぐるぐる忙しく回って、落ち着かなくて、忙しくて、大変でというような感じは、この「정신이 없다」(精神がない)ひとつでバッチリOK。ほかの言葉は不要です。
あまりに便利だからなのか、それとも、つい、怠けてしまいたくなるのか、日本語で説明するよりこの「정신이 없다」(精神がない)で逃げ切ってしまいたい気持ちになるのです。
2つめは、「그냥」(クニャン)です。こちらも状況に応じて、文脈に応じて訳がかわります。
왜 전화 했어?(どうして電話したの?
그냥 했지...(クニャンしたよ=理由はないけれどなんとなく電話したよ)
왜 그를 좋아하는거야? (なんで彼がすきなの?)
그냥.(クニャン=理由はないけれどなんとなく)
이것 어떻게 할까요? (これどうしましょうか?)
그냥 나두세요.(クニャンおいといてください=そのままおいといてください)
어땠어?(どうだった?)
그냥.(クニャン=まあまあ)
「なんとなく」「そのまま」「まあまあ」・・・いろんな場面に応じて七変化しているのが分かります。
どんな状況にでも使えてしまうので、日本語でダラダラ話すのが面倒な時は、「그냥」(クニャン)で済ませたくなります。
「정신이 없다」と「그냥」(クニャン)は、日本に帰国してもう20年たつというのにいまだに私の口からつい出てしまうわけです。梅子さんとは比べ物にはなりませんが、私の中の韓国語脳がうずいているのでしょう。