私の実家は大変な田舎にあります。
猿と鹿とイノシシがお友だちのような野性味あふれる地域でしたが、そんなところには珍しく、近所に大変上品なおばあちゃんが住んでいらっしゃいました。
私は幼い頃、度々そのおばあちゃんの家に出入りしていました。同じく近所に住んでいた友達と二人で、おばあちゃんの家にふらっとお邪魔して、お喋りして、帰るだけ。
ただそれだけなのにとても居心地がよく、温かくも澄んだ空気が漂っていて、普通の家とこうも違うのは何故だろうかと私は子どもながらに不思議に思っていました。
自分が成長するにつれそのおばあちゃんの家からは足が遠のき、そしてその方が亡くなったという話を父から聞いたのは、たしか私が中学生の頃だったと思います。
あのおばあちゃんは他のおばあちゃんと違っていた。幼い頃に家で遊ばせてもらうたび、違う世界に入り込んだような不思議な気持ちがしていた。
と、その時父に初めてそんな話をしたところ、そのおばあちゃんはその昔、京都は祇園の芸妓さんだったのだと教えてくれました。
なるほど、だからあんなにも、住まいも人も美しかったのかと私は合点がいったのですが、当時のことを私は最近、突然思い出しました。それは、夫の立ち居振る舞いをぼんやり眺めていた時の事。
その時夫は食器の出し入れをしていて、それが私の時と違い、極端に「音」が少なく感じたのです。
食洗機から出した皿を棚に戻す時、私はスピード勝負かの如く、次から次にガチャガチャと片付けていきます。
しかし夫が片付けるときは、お皿がぶつかる音がほとんどしないことに気が付きました。
そっと取り出して、そっと置く、「丁寧」などと意識せずとも、当たり前にそうするのが夫で、そうできないのが私でした。
その様子を見ていた私は突然、昔よく遊びに行った「芸妓だったおばあちゃん」の家を思い出しました。
何故なら私の中にあるそのおばあちゃんとの記憶にも、夫の立ち居振る舞い同様に「音」が無かったからです。
私は自分が幼かった頃のことを思い出す時、鬼ごっこで駆け回る子どもの声や足音なんかも同時に思い出しますが、あのおばあちゃんとの思い出には「音の記憶」がほとんどありませんでした。
テレビとか、ラジオとか、食器の音とか歩く音とか扉をバタンと閉める音とか。そんな生活音が記憶に無く、浮かんでくるのは「映像」ばかり。
あのおばあちゃんの家が異世界のように居心地が良く、そして私が子どもながらにおばあちゃんに上品さを感じたのは、きっと彼女の生活に余計な音が鳴っていなかったからだろうと思いました。
実は私の両親も、ごくごく普通の人間であるのに時々人から「品がある」と言われます。
母は無口だから分かります。無口でじっとしている人は上品そうに見えがちですから何となく分かるのですが、父などは物凄くお喋りなのに「品がある」と人から言われるのです。
一体何故かと疑問でしたが、父は喋りの音は多くとも、立ち居振る舞いで音を出すことは少ない人でした。物を置くときや歩くときに、どたばたと音を出しません。
口数の少ない人が品よく見えるのは、「喋らない人は品がある」わけではなく、発する音が必然的に少ないということで品よく見られやすいということでしょう。
ですからたとえお喋りでも、他の体の動きから発せられる音が少なければそれは「品あり」と映るはずです。
芸妓だったおばあちゃんも、私の夫も両親も、動きから出る音が少ない。
品の有無を分ける要素が折角分かったのに、「音を出さずに動く」ことの難易度が私には高すぎて、上品に生きることは不可能であると諦めの境地です。
※服やバッグも、ガチャガチャと音がしそうに色々ついているものは下品に見える、多分そういうことですよね。
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