発達障害のお子さんを育てる方のニュース記事などを読むと、診断がおりたときの気持ちとして「ホッとした」と話すお母様が多いことに気付きます。
自分の育て方が悪いのではなく、この子が悪いわけでもない、生まれ持った特性であることが分かり、自分を責めずに済むようになったという話です。
 
勿論「ホッとした」方だけではないはずです。診断がおりて悩みの渦中にあるというお母様も多いと思いますが、私はこの「ホッとした」という側のお母様のセリフにおこがましくも共感する部分があり、それは子育てではなく、私の母に起因しています。
 
 
私は幼い頃母に「お世話をしてもらった」という記憶は沢山ありますが、「遊んでもらった」という記憶がありません。一つ強く覚えているのは、リカちゃん人形で遊ぼうと母を誘ったものの断られたという記憶です。母と一緒の布団で寝ようとしたら嫌がられ布団から追い出されたとか、そういう少し悲しい思い出ばかりが多くあります。
 
母が私を産んだ時、周囲の親類が心配するくらい、母は我が子である私に興味を持たなかったそうです。たしかに赤ちゃんのお世話はしているけれど見ていて母としての愛情を感じない、遊んでやるようなそぶりもない、これは大丈夫だろうかと親類は心配したそうですが、その心配は的中し、本人である私自身も母の愛情を感じたことが無いまま大きくなりました。
 
 
母はATMが使えなかったり、書類への記入ができなかったり、話の理解が遅かったり、効率の悪い動きをしたりと、子どもの私から見てもモヤモヤすることの多い人でした。
母が夏休みに小学校プールの監視当番になった日のこと、当番は無事終わったしるしに自分の名前を当番表に書くのですが、母はその自分の名前すら緊張から人前で書くことができず、父は母の代わりに当番表に名前を書くためだけに仕事を抜けて、学校へ来たこともありました。
 
一事が万事母はなぜこうなのか、何故こうも効率が悪く、何もできないのか、そしてなぜ父もその母を許しているのか、名前くらい自分で書けと強く言えばいいではないか。
私は不思議でたまらず、そんな不思議な気持ちはやがて母を疎ましく思う気持ちに変わっていきました。何もできない母、私を愛していない母、それなのに裁縫だけは一日中飽きずにしている、もっと他にすることがあるだろうに、と。
 
 
そんな思いを抱えたまま大人になった私もやがて結婚して家庭を持ち、子どもを産みました。当然里帰りはせず一人で子の面倒を見ていましたが、ここまで硬直していた私の母への思いが、ある時に父から聞いた話でふわりと柔らかく溶けていきました。
それは母自身がまだ幼い頃、小学校に入学直前の就学時健診でのことですが、母が実はその時に、知能テストで引っかかっていたのだというのです。
 
知能的に心配があり再検査を進められたそうですが、母の母、私から見ると母方の祖母もまた変わった人で、そんな検査は必要ないと突っぱね、生活に大きな不自由感を持つ母をそのまま普通学級に入学させました。
字を上手に書けない、漢字を覚えられない、そして母は生まれつき片耳が聞こえなかったことで人との会話も避けるようになりました。母の妹、私からすると叔母にあたる人もダウン症であったため、姉妹で障害ありとなることを、当時祖母が嫌がった可能性もあります。
 
 
私は母に「知能検査で引っ掛かった」という過去があったことを大人になってから知ったとき、とても「ホッとした」ことを鮮明に覚えています。
 
 
おそらく母はグレーであろうと、そう思う心当たりは私にいくらでもありました。母が色々なことをできないのは母のせいでは無かった、努力でどうにかなるものでは無かったのだということが分かり、また私への愛情を感じられなかったとしても、母自身に不自由感の多かったであろう人生の中で私を産み育ててくれたことは、心から感謝すべきことだと思いました。
 
母は出産時、医師からも言われたそうです。「お産に問題はないはずなのにこんなにイキむのが下手な人は初めてだ」と。それくらいすべてにおいてうまく事を運べない母でした。
 
 
私は母のこのような話をすべて父に聞きました。母は辛い思春期を過ごしたようで自分の昔話をしたがりませんが、その一部を母は父にだけは話し、私はそんな母の過去をすべて父から聞きました。
 
 
私が子どもを産んだことで母には孫ができました。私と遊んでくれなかった母、私の息子のこともどうでもいいだろうと思っていたら、これが驚くほどに可愛がっています。
可愛がるというのは沢山抱っこするとか、何かを買ってやるとか、そういうことではありません。母は、私の息子のそばで、孫がすることにひたすら根気よく付き合ってやったのです。
 
ある夏休み、母はまだ3歳の息子に将棋を教え始めました。将棋の駒に興味を持った息子に対し、これはこう動かす、駒がここに来たら、ひっくり返す、と将棋のルールの説明を始めました。
教えても教えてもできない息子に、そんなもの3歳でできるはずが無いと私だったら直ぐに根を上げていたであろうことを、母はそのまま毎日4時間かけて、息子に将棋を教え続けました。分からないからと怒らない、できないからと諦めない、母はとても気が長く、「待つ」ことのできる人でした。
 
そうして息子はその夏休みの日々で将棋の駒の動きを覚えました。また同じころに母は「箸の持ち方」も息子に教えてくれました。怒らない、諦めない、そのような接し方で息子はすぐに綺麗な持ち方で箸を使えるようになりました。
 
 
知能検査で引っ掛かっているという母の過去を知らないままであったら、母の良いところ、人より抜きんでている「待つことができる」という美徳について、私が思いを巡らすような機会は無かったことでしょう。母が「できない」ことは、母の努力不足ではなく生まれ持った特性であるということがスッと腹に落ちた途端に、私は母との時間が確かに苦痛ではなくなりました。
 
もし父が先に亡くなり母が一人になったらば、我が家の近くにアパートでも借りて私が面倒をみてやらなければ、だって母は名前も書けないし電話も苦手なんだから私がやってあげねばと、静かに生きてきた母の人生の最後を守ってやりたい気持ちがあります。
何でもできる父が、母を見下さずに尊敬の念を持ち続けて接していた心根と、多くをできない母が、その中でも腐らずに生きてきた強さとは、私にも息子にも受け継がれているはずだと信じて、日々私も子育てをしています。
 
 
 
 
 
 
 
 

 

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