いつでも何かを好きでいたい
好きな気持ちで心をいっぱいにしたい
対象は何であれ
情熱は同じように溢れる
まじめに好きでいたい
脇目も振らず
そして、振り返った時生きていたと知るのです
どんなふうに恋していたのか
忘れてしまった
この時代の好きの種類が多すぎて
判断できない
手放しで好きでいられたら
どんなにいいだろう
無責任に好きでいたい
いつでも何かを好きでいたい
好きな気持ちで心をいっぱいにしたい
対象は何であれ
情熱は同じように溢れる
まじめに好きでいたい
脇目も振らず
そして、振り返った時生きていたと知るのです
どんなふうに恋していたのか
忘れてしまった
この時代の好きの種類が多すぎて
判断できない
手放しで好きでいられたら
どんなにいいだろう
無責任に好きでいたい
ずっと表面上で求めてたものの全部の根源は愛情表現が欲しかったのだとやっとわかった。
愛情が足りなくて、推しやものなんかに色々求めてるのかと思ってたけど、ちゃんと愛情表現して欲しいんだと気づきました。微妙に違うけどこれがしっくりくる。
みんなに愛情はあれど、せっかく生きてるから感じたいんだと思う。
愛情表現の中には、愛した分受け取ってほしいというのもある。
自分を満たしても自分の愛情表現は体現に限界があるし。
人とコミュニケーションとって、心を調整しながら愛情表現もしたりしたいんだとわかった。
日本の文化ではハグとか人を褒めるとかあ んまりないから、なんか寂しかったんだろうな。親に構ってもらえなくて褒められなくなったこともあったから、余計ずっと寂しかったんだろうな。
愛してほしい、寂しいっていうのが私の全ての核にある気がする。それが枝分かれして捻れたり、拗れてうまくいかなくなってしまう。
怒りもわかってもらえないという悲しみや寂しさの一種だったりするからね。
なんだかそれだけで心な垢が取れた気がしました。
人と関わるときに無意識で感情を抑えてるとわかってたけど、日常のささいなことの積み重ねでドーンと突破的に泣いてしまうことがいまだにある。私にとってはささいじゃないのかもしれないけど。
昨日久しぶりに抑圧から解放されて泣いていて気づいた。周りとの調和を大切にしてるから、自分の気持ちを出さない傾向にあるけど、調和を乱しても 大丈夫だと。仲が悪くなっても、険悪なムードになっても大丈夫だということをゆるせたらなんだか楽になった。
人と争うこと嫌ってたから、ささいな平和さえ手放せなかったんだな。ちょっとくらい感情乱れても大丈夫という自分への許可がおりなかっただけだと気付かされました。
まだまだ手放せない制限があるんだな。グラデーションで少しずつなんでもありだぜってなっていけば、もっと楽になるかな。