今まで培ってきた経験や慣習、文化、思い込み、洗脳、全部俯瞰的に見られるようになった。

去年の秋口から、毎日のように気づきがある。

自然としていたことに目を向けられることが多い。

例えば「あ、これは家族の否定的な会話をベースに今オウム返してるだけなんだ」、「あ、これは求められる姿をただやってるんだ」、その場で適切な演技してるだけなんだ、役割をしてるだけなんだと。知ってたけど現在進行形でわかりながらやってるのは面白いものだった。そして、自分の役割に没頭しなくなった。面白がれるようになって、真面目が一つ取れた。


あと物や出来事の選択もいつもならこうしてるけど何故かということに気づいたりした。「自分らしく見せたいから」、「絶対自分の意思で選びたい」、「私はいつもこれだと飽きるから」と自分で自分を決めつけてることに気づいた。

体力がないだの、覚えたくないだの、緊張したくないからとかいろいろ自分のために自然に選んでるんだということも知った。あえて知らない自分に会うために冒険させてもいいかもという選択が生まれた。


こういう心を守るのを優先した自分を意図せず作ってきたので、今の自分の波動とずれが生じてきた。

好きだからこうするでしょ、嫌だからこうするでしょみたいな公式を変えてみてもいいと思えるようになった。

自分のあり方は自由じゃんと。


そういう過程の中、推しや好きなものも全部トキメキが薄く感じてきた。推し方変えるべきかもなと思うようになった。私が頑張って応援しなくても、ただ好きでいれば十分だったあの頃の気持ちに戻りたくなっている。

この不思議な気持ちは2024年から始まってたと思う。

ただ認めたくなかったというか、何を目的に生きればいいのかわからなくなるから目を逸らしてたようにも思う。目的なくてもいいじゃないと今なら思う。


この人生何かを成し遂げにきたような気もするけど、頑張るやり方ではないんだな。やりたいことが自然に生まれて好きで行動するんだろうなと薄々感じている。


頑張るという努力しか生き方がわからないので、(土の時代みたいな生き方は辛いと知ってるのにね)

迷子になるのが怖かったんだと思う。

それでもよく生きてるよね。

それでも前を向こうとしてたよね。

私まだいい子なの?

ずっと人生の歩き方わからないけど、楽しんでるよね。このでこぼこ道。

そして、最近自分すごいなーってやっと思えた。

過小評価しすぎてたよ、まだ。

あれもこれも手を出してみて自分の限界までやったじゃん。ちゃんとあの時自分なりに選択した道進んで、試行錯誤していろいろ学べたのはすごく貴重な経験だったよ。合わない道を歩かないと合う道もわからないからね。

一つのことやり切るのか人生じゃないし、パッチワークみたいならつぎはぎでも立派な作品だもんね。


幼少期から育った価値観という実。もう落ちそうです。

蔑ろにしてた私の生き方。また間違えたなと、失敗したなと思ってばかりで私生き方下手だなと自己否定してるくせがまだ治らない。人生を根本から愛せるようにまだなってないのは、理想の人生を見つけるためだろう。見つけた時全部愛せると思う。多分。

周りにいる人と合わなくても、充分愛してもらってると実感できなくてもいいじゃない。話が合わなくてまたいいじゃない。これからそういう機会ないかもしれない。最後の不協和かもしれないじゃない。私は他の場所でもっと愛をもらえるし与えられるから。大切にしてもらってないと思っていいよ。こうされたいこうしたいっていうのが明確に見えたでしょう。

全部肯定しなくてもいいし、不安でももやもやでもいいよ。こうありたいって気づかせてくれただけで、その人や物たちは役割終えてますから。

そして、私がすごく大切にしてた物、とっても大好きだった物は自分の心を癒す物や守るものだった。しがみついてたのは感情を知って欲しかったから、感じて欲しかったから。自分でできるようになったら、必要なくなって、距離ができた。それが寂しくもあり不安でもあった。生きる糧のように依存してたから。唯一の安全基地だったから。もう充分愛してるし、充分愛されてお互い役割を果たしたと思うよ。

これから違う価値観の実をまた育てたいな。