ジョン万次郎の地(1) | 駐在員さん 〜2周目のアメリカ生活〜

駐在員さん 〜2周目のアメリカ生活〜

米国、一時フランス、中国、米国再駐で通算24年加算中。慶應大文学部卒。経営ノウハウの学術化を目指し、商学部の教授から論文指導を受け、人間関係学の学位取得。
延べ19年目のアメリカAnother Skyから発信します。

幕末維新の震源・ゆかりの地


ジョン万次郎を知っていますか?

名前は多くの人が知っていると思います。

でも、何をした人?と問われると答えられない人が多い。


私が知る酷いケースでいえば、三浦按針(ウィリアム・アダムズ)と勘違いしてるのか「日本に帰化」した西洋人だと思っている人がいます。

もっと酷い例もある。

「ペリーが日本から連れて行って育てた子」だとインプットをした輩もいました。

しかもペリーの地元の当地にありながら、私の会社の駐在員がここのアメリカ人に教えた無茶苦茶な話。


後述しますが、ジョン万次郎(中濱万次郎)は幕末の最大イベントの鎖国からの開国とその後の日本の近代化に貢献した最重要人物です。



私の住む土地


私の住んでいるところは日本の開国と近代化のトリガーに、さらにその後の最も重要な時期に日本の運命に影響を与えた人物にゆかりのある土地です。

先ずは、トリガー役のマシュー・ペリーがいます。
この人物については説明不要。

そのペリーが現れる少し前のタイミングに日本に帰国し、アメリカとの開国交渉に臨んだ日本の決断に重大な影響を与えた人物、それがジョン万次郎です。

さらにいえば、近代化の先導役となるわが慶應義塾大学の運営とカリキュラムに影響したブラウン大も含まれば、それら人物のゆかりの地の全てが私の自宅から30分ほどのところにあります。





さらに範囲を拡大すれば日本美術と西洋美術を通じて文化面の相互理解に貢献した岡倉天心やフェノロサが活躍したボストン美術館なども1時間圏内。2時間まで拡げると、『坂の上の雲』で中心的に描かれた時代、富国強兵の一つの成果となった日露戦争の勝利を受けて調印されたポーツマス条約のその現場となったニューハンプシャー州のポーツマスがあります。

私が慶應の講義で夢中になった『日米比較文化論』の実地見聞の絶好の土地にいる偶然に運命と感謝を感じています。




ペリー・慶應義塾


黒船のペリーについては以前この場で報告しています。








ジョン万次郎のゆかりの地へ


ジョン万次郎

非常に簡単にですが…紹介。


遭難

現在の土佐清水の漁師だった少年の万次郎。仲間と漁に出るも、土佐沖で嵐に見舞われ難波。漂流の末、土佐から約800km離れた無人の火山島の鳥島に辿り着きます。そこで約4ヶ月間、アホウドリなどを捕まえたりしながら食をつないで生き延びていました。




救出

その鳥島に通りかかったのが、ホイットフィールド船長が率いる捕鯨船。当時は石油がまだ一般的ではない時代。

アメリカの国内産業と輸出品として欠かせない燃料油は鯨から採取していました。アメリカが世界最大の「産油国」として、世界中の海で捕鯨。日本近海は猟場が拡がる重要な海域で多くの捕鯨船が操業するエリアでした。



航海中に鳥島にいた彼らを見つけ救助。


しかし、鎖国政策で彼らを日本に引き渡す術のないことを知る船長は、彼らを船に乗せ、太平洋上の拠点であるハワイに寄港します。


万次郎ら生存者はハワイで下船しましたが、船長は利発だった万次郎だけを連れて故郷に向けて出港します。

その行き先は船長の自宅のあるアメリカの捕鯨の一大拠点、マサチューセッツのニューベッドフォード/フェアヘブンでした。


日本人初、そして副船長に

万次郎は日本人で初めてアメリカ本土に渡った人物となりました。

彼はホイットフィールド船長に養子同然に育てられます。周囲や親戚らにも助けられ教育も授けてもらいます。

フェアヘブンの専門学校で操船技術を学び航海士となり副船長にまで上り詰めます。




万次郎が眺めた世界と帰還

世界をみた万次郎は、ヨーロッパの列強に通商を足掛かりにして、アジアの諸国を植民地化していく姿を目の当たりにします。

万次郎は祖国がこのまま鎖国し近代化が遅れ、同じ運命を辿るのではないかと危機感を募らせました。


そして、祖国にその危機を伝えるため、決死の覚悟で帰還。沖縄に降り立ちました。


鎖国中の当時の日本は、外国人との交流など言語道断という考えだったので即座に逮捕され、鹿児島、長崎へと転々としながら何年も勾留されます。


しかし、欧米列強の動きに関心のあった幕府は万次郎の経験を活用することを考えます。




アメリカへの開国

万次郎のいたフェアヘブンから車で30分くらいのところにあるニューポート出身のペリーが浦賀沖に黒船で現れ、開国と通商を迫りました。でも、実は、当時のアメリカの最大の産業であった捕鯨業界からの懇願の実現が第一目標でした。それは、太平洋上で操業することも多い捕鯨船の補給や航行に支障を来した場合に保護してもらうための港の確保とサポートでした。通商は「あわよくば」という位置づけ。


万次郎はアメリカのその意図を知っていたので、それを伝えながらヨーロッパ諸国と違い、アメリカは日本の植民地化の意図がないことを説き伏せます。同時に一方の通商に応じる必要はないとも。

つまり、植民地化の突破口となる通商を避け、開港だけでお茶を濁すという戦略です。そして日本は、その通り和親条約で結んだ開港だけに留めました。その後の通商修好条約を結びますが、時間稼ぎができました。それは、近代化技術を吸収する時間となり、あっという間に列強国になったということは、皆が知るところです。


私は日本が植民地化を逃れつつ開国によって近代化を果たすことができた最大の功労者は万次郎だと思っています。


前段が長くなりました。訪問記は次回。