もうずいぶん前に書いたブログで

当時は女性の起業とかセミナーとか

サロンとか流行り出した頃で

なんとなく不自然さを感じて

こんなのを書きました。



割と評判も反応も良かったものです。

良かったら読んでみてください。


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時、団地の四階に住んでた僕は

母の帰りを今か今かと待ち焦がれ
トイレの小さな窓からずっと覗いて外を
見つめ母の帰りを待ってました。


僕の小学生低学年の頃。
確か2年生くらいだったと思うけど
僕の母親は女にしておくにはもったいない
(こんな表現は差別と言われそうですが)
くらいの度胸と行動力の持ち主で
どんな縁なのか知りませんが食の安全に
ついての女性活動みたいなことをしてた。


当時まだ、成長期の日本(昭和50年代)では
大量消費が当たり前の頃で、そんなに食に
関して目くじらをたてる事は少なかったように
覚えています。


子供の頃から奇形の猿の写真や
コーラやカルピスに浸し続けた骨が
溶けていく写真なんかを見せられ、よく
わかんないけど怖いなって思ってました。


当時の名古屋では北海道の牛乳って
無くて(あったのかもしれないけど)
それもどこからの縁なのか
北海道の牛乳を名古屋にって活動も
していました。


今じゃ物流も整ってきて日本国内どこにでも
どこのものでも手に入れようと思えば
手に入る世の中ですが、まだその頃は
いろんなクリアしないといけないことが
たくさんあったようです。


小学2年の僕と幼稚園の妹を置いて
会議だ、出張だ、配送だって飛んで回ってる
母親が帰りが遅くなり、
毎日21:45ピッタリに帰ってくる父より
遅い時はいつも喧嘩。


それが嫌だし、何より夜に子供だけでは
不安だったので『バタン』と車の扉の閉まる
音がするたびにトイレの窓から覗いて
母親かどうか確認してました。


真面目の上に超がつくほどの父親は
『女は家にいなくては』なんていう固い頭の
九州男児でしたので、そもそも母親が
外に出歩くも面白くなかったみたい。


子供としてはせつなかった。


大好きな両親が喧嘩することが決定する
21:45までになんとか母親に帰ってきて
欲しかった。


今みたいに携帯電話があるわけでもないし
スマホでメールなんて出来ませんから
ただただ待ち続けるだけでした。


すでに亡くなった母親のことを恨んだりの
気持ちはこれっぽっちもありません。

ただ
あの時は切なかった。それだけ。


空前の女性の起業ブームと言われる昨今。
たくさんのキラキラした女性があふれ
喜ばしい限りではあります。


でも
僕のようにトイレの窓から覗いて
母親の帰りを待ち望んでる子供は
いないだろうか?


大好きなパパとママの喧嘩を切り刻まれる
ような思いで、耳を塞いでいる子はいない
だろうか?


もちろん
多くのママさんは家庭を大切にされている
ことだと思います。


でも
少しだけ、振り返って、子供をぎゅーっと
抱きしめてあげる時間作ってあげて下さい。


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僕の母親だって子供の健康のため
家族の幸せのためって動機ではじめた
ことだと思います。


こんな心配が杞憂であることを祈ります。