1639年4月2日(寛永16年2月29日)は江戸幕府旗本で数々の戦で功を立てた大久保忠教(おおくぼただたか)の命日にあたります。




忠教は通称大久保彦左衛門として知られています。
また『三河物語』の著者としても知られ、これは大久保家と松平家(後の徳川家)の忠誠や手柄を書き記したもので、この本は少し特徴的なところがあり、仮名混じりの独特の表記・文体で記されているため、当時の口語体を感じる貴重な資料とされています。
実はこの三河物語は門外不出で、公開するつもりも当初はなかったため、他家の事はあまり書かず、忠教の不満や意見などがそのまま残されています。
しかし、これは後に複写として世に出回り、人気になっていきます。
この物語には徳川の名を地に落とした第一次上田城攻防戦の事も鮮明に描かれています。
上田城攻防戦後、真田を敵に回したくないと考えた徳川家康が、徳川四天王本多忠勝の娘小松姫を嫡男真田信之へ嫁がせた事は有名です。




忠教は永禄3年(1560年)三河国上和田(愛知県岡崎市)に生まれ、17歳の時遠江平定戦で初陣を飾ります。
高天神城の戦いでは岡部元信を打ち取り、第一次上田城攻防戦では兄大久保忠世らと共に奮戦しています。
小田原征伐後は、主君家康が江戸に移封された際、兄忠世および子忠隣が小田原城主に任じられると3千石を与えられます。
関ヶ原の戦い(こちらこちら 参照)では家康本陣で槍奉行を務め活躍します。
しかし、兄忠佐の嫡男忠兼が早世してしまったため、男子がいなかった忠佐は忠教に養子として迎え、駿河沼津藩を継がせようとしましたが、『自分の勲功ではない』と言って断られ、沼津藩は忠佐死後改易になります。
その後大久保長安事件により兄忠隣が改易、それに伴い忠教も改易処分を受けますが、家康直臣の旗本として召しだされ、三河国額田に千石を拝領し復帰します。
慶長19年(1614年)の大坂の陣こちらこちら 参照)にも槍奉行として活躍し、家康死後2代将軍徳川秀忠の上洛にも従い、3代将軍徳川家光の代になって旗奉行になり、この頃に千石加増されます。
寛永12年(1635年)頃から常陸国鹿島に三百石ほどの地に移り、余生を送りながら『三河物語』の執筆に没頭します。
死に間際に家光から5千石の加増を打診されていますが、『余命幾ばくもない自分にはうれしい限りですが、不要』と辞退したと伝えられています。




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