1613年3月16日(慶長18年1月25日)は岡山藩池田宗家初代藩主池田輝政の命日にあたります。

輝政は姫路城を現在残る姿に大改築したことで知られています。




輝政は永禄7年(1564年)12月29日に織田信長の重臣池田恒興の二男として尾張国清州に生まれます。
そして元服して信長に仕え、天正8年(1580年)の花熊城の戦いにおいて軍功を上げ、信長から感状を授けられます。
しかし、天正10年(1582年)6月2日信長は家臣明智光秀に殺されてしまい、父恒興とともに中国地方攻略をしていた羽柴秀吉の下につき、光秀と戦い勝利をおさめます。
そして同年10月15日、秀吉は京都大徳寺で信長の葬儀を盛大に催し、自分が信長の後継者であることを世間に示し、輝政は信長の四男羽柴秀勝とともに信長の棺を担ぎます。




天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いこちら 参照)で、父恒興と兄池田元助が討死したため、家督を相続し、美濃国大垣城主13万石、ついで岐阜城主13万石を領します。
これは後の話なのですが、家康の娘・督姫を娶った際、輝政は伏見の徳川屋敷を訪れ、その際長久手の戦いで父恒興を打ち取った永井直勝と会い、父の最期を聞きます。
しかし、その時永井が5千石の身分だったことを知ると途端に不機嫌になり、


『父の首はたったの5千石の価値しかなかったのか』


と悲観します。
それを聞いた家康は永井直勝へ加増をし、1万石の大名になります。
その後永井家は最終的に7万2千石を拝領することになります。

その後も紀州征伐富山の役九州征伐など秀吉の主要な合戦の大半に従軍し、その功により天正15年(1587年)秀吉から羽柴氏を与えられます。
小田原征伐後には15万2千石に加増され、吉田城主となります。




慶長3年(1598年)8月18日秀吉が没すると家康に接近し、また、武断派の諸将らと共に行動し、文治派の石田三成こちらこちら 参照)らと対立、翌慶長4年(1599年)閏3月3日、両派の仲裁に入っていた前田利家が病死すると、七将の一人として福島正則こちら 参照)や加藤清正らと共に三成邸襲撃事件を起こしますが、これは家康が仲裁に入ったためことなきを得ました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いこちらこちら 参照)では徳川方に加担し、本戦のみならず、前哨戦となった岐阜城攻略戦にも参加し、福島正則と共に功を挙げます(岐阜城の戦い)。
岐阜城の戦いでは正則と激しい功名争いを演じ、一番乗りの手柄を挙げていますが、輝政はあっさりとこの功を譲り、正則と二人同時に城を落としたことにしたと言われています。
そして戦後輝政は播磨姫路52万石に大加増移封され、この時名を『輝政』と改めました。
実はこの時、家康からは播磨一国と美濃一国どちらかの加増を提示され、輝政を始め大半の重臣たちは故地の美濃を拝領しようとしていたそうですが、伊木忠次のみは播磨は通交の要衝で国発展しやすく、美濃も交通の要衝で肥沃ではあるが、東西の戦地となりやすく関東に制しられやすいのであまり発展は望めないとし、播磨を選んだとも言われています。
姫路城主となり、慶長6年(1601年)から慶長14年(1609年)にかけて姫路城を大改築します。
また、慶長11年からは諸大名と共に幕府の命により江戸城普請や名古屋城普請など、天下普請にも従事します。
また、慶長16年(1611年)3月には、二条城において家康と豊臣秀頼との会見に同席します(この時家康は豊臣家滅亡のシナリオを考え始めたといわれています)。
このころになると、二男池田忠継の備前国岡山藩28万石、三男池田忠雄の淡路国洲本藩6万石、弟池田長吉の因幡国鳥取藩6万石を合わせ、一族で計92万石もの大領を有し、明治に至るまで池田家が繁栄する基盤となっています。
そんな中、慶長18年(1613年)1月25日姫路にて輝政は急死してしまいます。
輝政の死は秀吉の呪いとも噂されます。
家督は長男の利孝が継いで、後に起こる大坂の陣では徳川方について大阪冬の陣の緒戦の尼崎合戦に参加しています。




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