1561年3月4日(永禄4年2月19日)は徳川四天王とし名を挙げ、数々の戦において活躍し初代彦根藩主となった井伊直政の誕生日にあたります。




井伊直政は鎧兜を赤一色に統一する『井伊の赤備え』または『井伊の赤鬼』という異名で有名です。
この赤備えというものは元祖は武田四名臣山県昌景で、昌景の意志を継ぐという意味合いを込めていましたが(三方ヶ原の戦いで家康は武田家臣に敬意を評し、直政に赤備えの許可を出したと言われています)、この他にも赤だと戦場で目立ち、部下たちが何処にいるのかがすぐに分かるためとも言われています。
初陣の小牧・長久手の戦いこちら 参照)では大いに活躍し、秀吉やその配下の武将たちも井伊隊には手を焼き、『戦国屈指の精鋭部隊』や『徳川家臣団最強の部隊』と言われ、諸大名に恐れられていきます。
そしてこの赤備えは幕末まで続いていきます。
直政の子孫井伊直弼こちら 参照)も直政を取り上げられ『井伊の赤鬼』と言われていましたが、これは直政の武勇に優れたという意味ではなく、弾圧などによる憎しみによるものとして例えられています。




直政は永禄4年(1561年)2月19日、今川家の家臣井伊直親の長男として生まれます。
井伊家は先祖代々井伊谷の国人領主で、直政の祖父井伊直盛は今川義元に従軍し桶狭間の戦いで戦死します。
桶狭間の戦いにより今川領は大いに混乱し、井伊家もこれに巻き込まれて行きます。
そして直政が生まれた翌年の永禄5年(1562年)に謀反の疑惑を受けて直親は今川氏真に殺されてしまいます。
正式な跡取りだった直政はまだ2歳だったため、直親の従兄妹に当たる祐圓尼(ゆうえんに)は井伊直虎と改名し井伊家当主になります。
後に直政は井伊家の家督相続権を失ってしまい、さらに井伊谷の所領を失い、今川家に命を狙われる日々が続きますが、今川家家臣新野親矩に保護されます。
このことは井伊氏の菩提寺、龍潭寺の住職に『井伊氏1000年の歴史で、最大のピンチを救った』と評されています。
その後天正3年(1575年)に徳川家康に見出され、井伊家に服することを許され、さらに旧領である井伊谷を与えられ、家康の小姓として取り立てられていきます。
そして家督を代行していた養母の直虎が天正10年(1582年)に亡くなると正式に当主となります。




直政は、高天神城の攻略をはじめとする武田家との戦いで戦功を挙げ、その勇名を轟かせます。
この(第二次)高天神城の戦いでは、武田勝頼援軍を一切送らなかった事から、勝頼の信頼が一気に失墜し、武田家はその後あえなく滅亡してしまいます。
しかし、武田家が滅亡してまもなく、戦国の世を震撼させる事件が起こります。
それが天正10年(1582年)6月2日早朝に起こった本能寺の変です。
これにより、覇王織田信長明智光秀の謀反により亡くなり、さらに長男織田信忠二条城において横死してしまったため、天下は混乱に陥ることになります。
また、この時家康は堺で物見雄山をしていたため、井伊直政・本多忠勝榊原康政服部半蔵茶屋四郎次郎こちら 参照)など数人にお供しか連れていませんでした。
この時決行されたのが家康生涯最大の危機とも言われている神君伊賀越』です。
これは伊賀出身の忍服部半蔵や御用商人茶屋四郎次郎の活躍で見事伊勢湾に出ることができ、三河国に戻ることができます。
その後は『天正壬午の乱』で北条家との外交交渉などで直政はその手腕を発揮していきます。
ちなみに天正壬午の乱は当時の旧武田領の支配者織田信長が本能寺の変により亡くなったため、そこの領地を徳川と北条が我先に攻め込み、切り取って行った戦いです。
これにより家康は武田家の旧領である信濃国、甲斐国を所領し、武田家の旧臣達を多く与力に付けることに成功します。
そしてこの功績により直政は井伊谷4万石に加増されます。
その後も天正13年の真田攻めの撤退を指揮したり、小田原征伐では唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込み、400人を打ち取り、『万事にぬきんで合戦し、天下に誉を得後代に名を残せり』と称賛しています。
小田原征伐の後、家康は関東に転封され、直政は上野国箕輪城に徳川家臣団の中で最大の12万石に封ぜられます。
因みに10万石以上を与えられた者は、直政、本多忠勝、榊原康政の3人のみです。




そして天下の覇権をかけた関ヶ原の戦いこちらこちら 参照)の際には、事前対策とし黒田官兵衛こちら 参照)・長政こちら 参照)親子を徳川方に取り込んだことの評価は大きく、戦後佐和山藩18万石を与えられます。
しかし、関ヶ原の戦いの際、西軍島津義弘の軍との激戦の最中、義弘の甥島津豊久を打ち取りますが、自らは義弘隊の鉄砲が右肘関節に命中し、落馬してしまいます。
そしてこの怪我が原因で直政は1602年3月24日(慶長7年2月1日)死没します。
死因は破傷風と言われています。
また、直政が死去した当初、民衆たちの間で三成の亡霊が城下を彷徨っているという噂が広まります。
この事を聞いた家康は佐和山城を始めとする三成に関係する建物を全て廃します。




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